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預言者イザヤが、東海の島山を知っていた事と、イエスの子孫の太秦天王が、東海王を名乗った経緯は、聖書6000年以前の、縄文時代の日本に繋がります

  • yamato-567
  • 2020年7月2日
  • 読了時間: 2分

神道とキリスト教が同じであるのではなく、イエスが十字架にかかる事を前提とする、一般的なキリスト教からは異端とされた、存在するはずのないイエスの子孫の太秦天王の神道(太秦景教)が、日本の神道に影響を与えているという事です。

太秦景教の后が、重労働である蚕の世話をしていた伝統を唯ー受け継いでいますのは、日本の天皇家だけです。

そして、面白い事に、拝ヶ石と、宇土の海の日本の国名の由来に関わる景行天皇の景、また、拝ヶ石の星読みのスタイルが、星と星を糸で繋ぐ、太秦の地の胡人のスタイルで、さらには、拝ヶ石を下った天水町と、太秦の中心市の天水市の名が同じうえに、天水湖では、明治天皇や平成天皇まで、天水をお飲みになられています。

しかも、預言者イザヤは、東海の島山を示しましたが、太秦天王が祖先から受け継いだ称号は東海王で、太陸から流れ着いた場所は、大陸からは東海の島山の、日本の西海岸の実家の畑(弓月)だと口伝されています。

実家には、それよりはるか以前に、東海龍王の龍目石(黒曜石)が、受け継がれています。

これは、イスラム教が回教といわれる由縁の、その回る中心の黒石と同じものだと考えています。

弓月の畑近くの神社は、太秦の末裔である辰(秦)韓の大使館跡地で、しかも、神社の手水舎は、イエスを象徴する、霊と令(火と水)の洗礼(パブテスマ)の縄文火焔土器の形です。

天下太平の掛け軸は、天下(アモイ、球磨では天下神社をアモイと読みます→アンゴルモア大王)太秦の平安な京(1999→祇園祭でひっくり返される666)を暗示しています。

本日は、太秦を支えた末裔の、服部熊本支部長が、遊びに来られました。

今に繋がる不思議なご縁に感謝いたします。



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