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雲仙の太陽と山車

  • yamato-567
  • 2020年11月4日
  • 読了時間: 2分

神社の祭りで、船を山車で引きますのは、私たちの祖先が、湖沼から川へ、干潟から海へと船をひいていた暮らしの継承です。

その事で、皆さま方が関心をお持ちになる、邪馬台国はどこかにも関わるのですが、船に乗っていた方も船をひく事となり、邪馬台国までの道程は、距離の計算どころではなくなり、日数表記となります。

そもそも、いつも申しております邪馬土とは、馬が足をつけれない場所で、海からすぐ山になる場所や、干潟などを示しています。

そこで、今でも有明海の干潟は、世界最大の漁民人口を養うほど広いのですが、かっては、九州の内陸奥地まで広がっていました。

少年の頃まで、その干潟で、平船(一般的な竜骨の船ではなく底が平たい船)をひいていた坂口の遠い祖先は、有明海が、陸地になっていく事を予言していました。

そして、いつも申しております、烏の烏土国(今の宇土)や邪馬嘉国(今の菊池山鹿)は、実は狗奴国の一部で、邪馬台国の南にあった狗奴という表記は、実は、狗奴の中の邪馬台国という事です。

そして、口伝から推測いたしますと、今の福岡の、田川郡あたりと考えています。

ところで、指標となる烏土という地名が、他の地にもありますのは、烏土から、吉備や大和へ、大王(天皇)の墓石(馬門石)を運んでいたため、途中住み着いた方々が、そのまま烏土と名乗ったのではないかと考えています。

なぜ、大和の大王の墓石が、遠い熊本の石でなければならなかったのかは、狗奴の謎にも繋がります。

邪馬台国よりも、邪馬土そのものである狗奴の方が、古代日本の歴史では、重要ではないかと思います。

写真は、天智天皇の時代まで、日本の時刻の標準でありました有明海(遠くの山が雲仙島原)です。

最近の研究では、吉野ヶ里も雲仙島原の信仰と繋がっていたそうですが、熊本の健軍神社(たけみや)の数キロの長い参道も、さらに有明海を横断して、雲仙島原と繋がっていました。

卑弥呼も、狗奴の有明海(火の国の中心の雲仙島原)の太陽を、拝んでいたのかも知れません。



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