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阿蘇谷~モーセやイエスや帝釈天、猿田彦の万教に波及する庚申(あなた方は眠ってはならない山上の祈り)~蘇りの古代王家の谷

  • yamato-567
  • 2020年12月30日
  • 読了時間: 2分

日本の古代史が混乱いたしましたのは、古代は、九州と半島が一つの平和な国でありましたのに、大陸や半島の侵略勢力が台頭し、鉄などの資源争いなどから、半島は争乱の地となり、九州も危険となった事です。 そのため、より安全な大和に、政治の中心は移りました。 移った事により政治(元号)は重複いたしますが、新たな日本が誕生したわけです。 ところで、筑紫の君は急速に力を失い、今の歴史では、反乱を起こし鎮圧されていますが、多くの歌詠み人らは、そのまま新政権に移行します。 歌詠み人らが歌聖と尊敬されながら、身分が低かったのは前政権の役人であったためです。 その、筑紫の君の岩戸山から、熊本の岩戸山へ抜ける竈門の水門は、九州王朝の祖先へ返る道ですが、同じに、大和朝廷も、四国を抜けて、熊本烏奴から祖先の墓石(馬門石)を運びました。 古事記で、オウスが熊襲を滅ぼすのに、熊襲の名(ヤマトタケル)を襲名するというおかしな話は、熊襲の勢力は封じ込めながらも、祖先の祭り事を継承するという、難しい 局面ではありました。 それで、大嘗祭では、九州南部のクバの葉が重要だったわけです。 また、聖徳太子が、球磨川と半島の両地で暮らしていた日羅を師としましたのも、その日羅も聖徳太子も殺害されましたのも、倭国が二つに割れていたためです。 近年になりまして、日本の民族学の大家の柳田国男が、米国人のエンブリ一博士(ロックフェラー財団の御曹司)に、奈良や京ではなく、熊本の球磨を紹介なされたのも、外国のお方には、日本の古代史研究者にある先入観がなかったからだと察します。 そして、エンブリ一博士が真に知りたかった謎は、アークの行方だったんだと思います。 筑紫の君を象徴する半島由来の須恵器、その名の球磨の須恵村(阿蘇谷)。 当時、百歳を前にした阿蘇谷の爺さんが、小学生だった私に口伝した話は、まさに、三種の神器(アーク)の話でした。 古代の筑紫の岩戸山で生まれて来たからこそ、幼いながらも、家族(伯父母や従兄姉)にも話せない話をしたのだと思います。




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