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蘇りの気づきは、火ではない、火の元の気づき

  • yamato-567
  • 2021年4月5日
  • 読了時間: 1分

古の言霊を復活させますと、豆は、ーなる何かが、聞くもの(耳)と話すもの(口)に分ける(並立する)様子に気づいている真目(聖)です。

要するに、鏡に映った目ではないという事です。

節分(王仁(愛)は外、葺き替えるは内の復活)の豆まきは、坂口の実家では、イースターに、自らの目に当てていました。

富士も豆と同じ意味ですが、言霊では不二と響きますのは、難しい話となりますが、この現実では、肯定では表現できないからです。

例えば、私は花ではない、私は車ではない、私は私ではないの否定の不(あらず)が、私は在るの便宜上の表現という事に成ります。

バッテンという芳言も同じです。

ところで、富士山浅間神社の浅間は、熊本の阿蘇が訛ったものです。

浅間には、蘇り(復活)という意味が込められているんですね。

そして、阿蘇は火の元の国と呼ばれますのは、火山活動があるからではなく、蘇りの気づきは、ややこしいのですが、火ではない、火の元の気づきだからです。

それで私たちは、火の元(日本)を国名としているわけです。

松の油(火の元)を注がれる〆シヤの写真は、お借りしています。



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