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芳山の中腹に現れた広大な遺跡人は、友の概念を持っていました

  • yamato-567
  • 2020年8月27日
  • 読了時間: 1分

三十数年前の事ですが、大宰府天満宮からのご依頼で、芳山の麓のある神社の、梅の木を頂きたいとのお話をお聞きし、そうとは知らず、○億円の価値の梅の木の枝を、無造作に剪定していた私自身を笑いました。

されど、老木のため幹の中は空洞化していて、老木の命がかかるという事で、破談になったそうです。

ところで、天満宮と申せば菅原道真ですが、祖先の土師氏は、その神社周辺を地盤としていたのです。

アジア外交の拠点とされた池辺寺は、すぐ近くです。

池辺寺跡からは、土師氏の土器が多く出土しています。

宇多天皇に愛された、菅原道真と藤原北家との間に確執があったとされますが、元々の本家筋の藤原南家であったなら、仲よくできたのかも知れません。

なぜなら、両祖先は、同じ芳山でも、お隣の仲だったからです。

そういう意味では、歴史を知るという事は、いつの時代も大事です。

そうなりますと、東風(こち)も、南風(はや、隼)という歌に替わっていたでしょうか。

写真は、少年の頃から、実家の私の部屋に掛けてあります、菅公の掛け軸(市販のもの)と、芳山の池辺寺跡の遺跡です。


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