top of page

芒(禾)の和(秦)人。

  • yamato-567
  • 2020年9月18日
  • 読了時間: 2分

日本人は、なぜに、月に芒を愛でるのでしょう。

また、なぜに、これから咲くという華やかな花ではなく、草の生命さえも亡くしていくように見える、芒なのでしょう。

芒は禾(ノ木)とも書きますが、すぅずぅうと延びて現れたこの世界は、実は、○の木の○がミソなのです。

○をよくご存知の方は、それは生命の木だろうとおっしゃいます。 それで、私たちは、はたして、生命の木の事を知っているのでしょうか。 その儚い草の命の、行方さえも知りません。 ところで、生命を見るものと見られるものの関係が成立しなくなった時(草のす形がついえた時)、命を看取ったと口から突いて出ますように、命は、私が取っているのです。 それを知るのが和人という事です。 取ったと申しましても、私という月の光を亡くしただけです。 それで、生命は、月の光(月氏)により姿を現しているという事で、和人の誇りは、生命の葉(事葉)の主、すなわち、生命の木という事です。 また、看取る生命は、ちょうど迦具耶姫のように、決して取る事のできない月を象徴とした、私の実在から来て、私の実在へと帰(帰依す)るのです。(神の光である米(日)→米からI(私)が落とされ曲玉された光が月の光、日月の神事の秘密) 月を眺めながら、芒を愛でますのは、私たちの祖先が発見した、生命の仕組みの科学という事です。(団子は、見えない案を知るという事) エジプトでのモーセは、月の象徴として鏡餅(マンナ)をつき、神に野生米(マンマ)の穂を供えたと考えていますが、モーセも、今の日本人である私たちのように、お月さまを眺めていたのでしょうか。 写真は、お借りしています。


 
 
 

Comments


記事: Blog2_Post

Subscribe Form

Thanks for submitting!

©2020 by 日本(大和)。Wix.com で作成されました。

bottom of page