人類世界では、一部の方々が多くの富を独占されているのも事実です。 しかしながら、一方で社会的弱者への救援活動や寄付をしている富裕層の方々もいらっしゃいます。 その中で、富めるものは許さんという活動で地位を得、蓄財しておいでなら本末転倒です。 規模は違えど、憎む相手と同じ、自らの地位や蓄財を如何にして獲得するかだからです。 むしろ、憎しみを集め、本来の挑戦の妨げとなります。 これまで人類が敗れ続けた本来の挑戦が難しいのは、憎む相手のエネルギーを供給しているのは私(あなた)である気づきに至る事が難しいからです。 その気づきを、私は在ると観る(観自在)と申します。 もう少し分かり易く申しあげますと、相手も私の現れ(相手の中に私が居る)だという事です。 例えば、夢の中で現れる恐ろしい相手は、私自身の恐れをエネルギーとして映し出しています。 それは霊界の仕組みでもあるのですが、この現実の世界(令界)も霊界と同じ命令(意志の反映)の仕組みです。 ただ、夢見や霊界のようにストレートではなく、淡路と固まるまで鈍く時間差でやって参りますので、今起きている事に対して、私はあなたであなたは私だは通用いたしません。 ですから、甘い平和理想に陥らず、憎しみなく戦うという、常識はずれで可笑しな戦いをしなければならないのです。 しかしながら、日本人は武の道として、この戦い方を鍛えられて参りました。 自らを客観的に俯瞰しながら、腹を召さなければならないような如何なる不遇にも主体性を持つという、矛盾とも申せる戦い方です。 末(現れ)を法(主人)とするのではなく、本(意志、如)来が主人でなければなりません。 なぜなら、私(あなた)の意志の尊厳(責任)こそ、神の子の証しだからです。 私(あなた)が神の子である気づきへの挑戦が、日本(ヤマト)のコンセプトです。
yamato-567
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