聖徳太子の師
- yamato-567
- 2020年9月22日
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百済と熊本という名は、狗という源では同じですので、近年の市町村合併まで、百済来村の名の村もありました。
サッカー元日本代表の本田選手の祖先の地は、八代の坂本(旧百済来村)と、以前の投稿で紹介いたしました。
ところで、新羅から任那を守るため、大伴金村の子の狭手彦に同行した武人の阿利斯登(新羅を建国した方たちに関係する名)は、半島の任那と熊本の葦北を同時に治めていたと伝えられています。
そんなバカなとおっしゃいますが、葦北では、今でも健在な古代船が、うたせ船漁で活躍していて、船と航路さえあれば、近畿圏よりも半島の方が近かったとも申せます。 ところが、この事で、古事記などの口伝では、言葉の壁と、今の日本の地でない所まで、日本で起きた事として伝わる事となります。 当時は日本だったわけですから。 その子の日羅も、半島の百済で生まれ育ち、威徳王の元で、高級官僚を務めています。 日羅は、聖徳太子の師として知られる方ですが、百済が九州を狙っている事を天皇に伝えた事が、同行していた百済の役人にバレて、殺される事になります。 背景に、今の時代に例えますと、ライバル会社でありながら、お互いに株式を持ち合う企業のような、日本と百済の政治的ねじれ現象があり、しかも、百済も割れていたようです。 難波に埋葬された日羅の亡骸は、盟友である大伴糠手子や物部贄子らにより、熊本の葦北まで送り届けられます。 古代の港に繋がる私の自宅近くには、聖徳太子ゆかりの寺もありますので、聖徳太子も、当時の日本である半島を行き来していた方ではないかと考えています。 写真は、八代(当時は葦北)の百済来村の日羅の墓と、今も現役の、葦北うたせ船です。 写真は、お借りしています。








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