美ら、世界に残る縄文人のDNA
- yamato-567
- 2020年6月24日
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遺伝子的にみましたら、中国の中で日本人に近いのは、羌族だそうです。
法螺貝を帽子につけ、銅鏡を首にかけ、万物に霊が宿るとしている、まさに古代の日本人です。
殷では生け贄になり、秦や斉の共通の祖先ともいわれていますので、秦や斉が日本人が建国したものである事の証にもなります。
石工が多く、白石神仰である羌族ですが、有名な斉の桓公姜小白も、日本人といわれる呉の太伯も、白という所で繋がり、そして朝鮮半島では新羅(しらぎ)、日本では白木神社や阿蘇から熊本市へ流れる白川や球磨の白岳と繋がります。
出雲の方々は帰ってこられた方々ですが、人吉球磨の熊襲は、その前に出て行って帰ってきたほうという、おおまかな分け方になります。
古代の九州において、日本で一番遺跡が出土している筑紫より北が日の本、東が日向(ウガヤフキアエズは日向族から分かれた方々)、南が火の国でした。
それは、日本人が大陸では複雑な経路をたどっている事で、戻ってきてからのすみわけにもなっていると考えます。
まず、日本の都(宮古)が南の島々であった海の縄文時代は、世界中に衛星都市がありました。
古代エジプトや古代メソポタミアの文明の礎となりながら、ヨーロッパへ向かうもの、インドや中国、北米、南米へ向かうものもいました。
また、氷河期には日本と大陸が陸続きになり、そのまま温暖であった長江に住み着き、灌漑(とも)工事をして、野生米を食べ、魚を獲って暮らしていました。
それは、黄河文明が興るはるか昔の事です。
その揚子江の河姆渡人たちを河童と申し、戻り渡って来た方たちが住んでいた地は加茂(河藻)、鹿本(来民は昭和天皇の御成婚内閣といわれた清浦奎吾首相などの出身地)の地名として残っています。
羌族の方々が重要でありますのは、東西南北の中国名地を移動されているからです。
そして一部白人系の遺伝子が残りますのは、中東、西アジア、中央アジアのものとの合流であると思います。
なぜ合流したのかは、同じ教えであったからだと考えます。
ユダヤ教は、今でも民族の定義はありません。
古代のユダヤには、教えを同じくする違う民族がいたと一般的にも考えられています。
それで、バビロンの捕囚以前から、またその後も東へ渡った方々は、同じ教えであったので合流したと思われます。
大陸から九州に渡ってきた人は、肌色が白く体格が大きかったとも聞いております。
景行天皇の景も桓武天皇の桓も斉にあります。
日本人は小日本人ではなく、大日本人です。
大きければいいというものではありませんが、それほど世界の歴史に関わってきた事を、子供たちには伝えていきたいですね。
それで、どう受け止めるかは子供たちの自由ではありますが、伝えておく事は、今の大人の世代の責任でもあると思います。
写真は、美人の方もおられますが、美の元は、うちゅうのうの始まりとうの終わりの中身のアンのちゅ(中主、ちゅら)で、アジア大陸で羊飼いになり、美人や羌となったのが戻ってきて美らになったのではと考えます。
写真は、こちらの巨石と羌族の方々です。

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