縄文神道の根本~日の本による冬至の日の復活
- yamato-567
- 2021年1月27日
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皆さま方が常識だとおっしゃるのは、私そのものの意志からではなく、蓄えられた記憶を分析する、思考の判断に委ねておられる、いわば蓄積(ウンチく)からのご判断です。 例えば、鏡よ鏡よ鏡さん、世界中で一番美しいものは誰かと問いました時、すでに判断が委ねられているわけです。 白神(白雪)そのものである時、常識的判断になるのかはわかりません。 むしろ、常識的判断からは逸した、妙見妙法に映るのでしょう。 少彦名が用意する七つの挑戦の内の三つは、私は知っているという思考での判断(常識)を中断する作業で、中つの一番鳥が鳴く(朱鶏、冬至)、更にその後の三つで思考を使いとして復活させるわけです。 私の毎日の投稿は、少彦名の七つの挑戦ですので、私は知っている、私は常識人だというスタンスでは、チンプンカンプンなのだと思います。 猿田彦は妙見を示し、釈迦は妙法を教え、イエスは、三日後の復活の前の一番鳥が鳴くまでの三度、私(真理)を知らないというだろうと申しております。 これは、弟子ペテロの不信仰ではなく、冬至前後(七日間)の日(霊)の本の復活をしていた、縄文人の神道をイエスは示したわけです。 それで迦那安のイエスも、釈迦も、日本(迦那)人だと申しているわけです。

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