top of page

私たちは、なぜ、再び臨む(挑戦)するのか

  • yamato-567
  • 2020年7月11日
  • 読了時間: 4分

ローマの統治に迎合しなかった、元祭司長の子という境遇のものにとって、貧しいナザレという街は、身を隠しやすかったのだと思います。

また、石工の街の那座礼には、貧しかったゆえに、今の現状を変えようとして、多くの政治的革命家もいました。

イエスが育った環境は、まさに、ローマと、ローマに迎合するユダヤの指導者たちを同時に憎む、政治的革命の混沌とした地でした。

一方、パブテスマのヨハネは、少年時代は、表向きの政治活動とはあまり縁がなく、後に、荒野に隠れた形で、革命を目指す事となります。

憎しみの革命の地にあるイエスにとって、その憎しみを干らすグループの基盤を作る事が困難であった事と、ローマと敵対する活動は、ローマが編纂した聖書に載るはずがありませんので、その大半の生涯は、歴史的には、謎となったのです。

ところが、唯一、憎しみを煽らずに精神から革命する、パブテスマのヨハネのグループと出会います。

その出会いは、兄弟として、必然の事でした。

ただ、一度はイエスを立てるパブテスマのヨハネでしたが、ユダヤを生き残らせるためには、ローマと迎合する道しかないとの判断と共に、ローマの統治者そのものの精神革命を狙ったのですが、首をはねられてしまいます。

パブテスマのヨハネの心を察しますと、ユダヤを生き残らせるためとは、自らの心を納得させるためのものでしたが、本心は、ユダヤの希望、預言者エリヤの再来として、自らがヒーローとなった今、イエスの配下となる事に抵抗があったのです。

そして、革命は失敗に終わり、イエスらは、影武者を立てながら、ローマから落ち延びていくのです。

数百年を経た子孫の代で、ようやく建国しましたのが太秦でした。

天王の后が、重労働の蚕の世話をするなど、今の日本の皇室にも受け継がれていますが、最も驚くべき事は、民族と思想の共和国という事でした。

天王を近衛で守るものにも、異民族がいたと考えています。

しかしながら、国が滅び、チベットの仏教(後の修験道)などに紛れて、落ち延びた所が、南韓半島の辰韓です。

宇土(邪馬土)の向野田遺跡には、チベット産の翡翠があり、宇土の馬門石は、大和の大王(天皇)の墓石になっているのですから、繋がっているわけです。

その太秦が、真の新約の十二単(単は五唐衣)で、十二支族の旧約との統合が、12x12の大和三輪(000)→144000人のヤウマト(神民)の聖書の預言です。

それは、日本の過去の歴史で実現しているわけです。

そして、大和三輪桜井の大神氏が、聖書の預言通り、京都(平安、エルサレム)千年王国を建てる裏門として、平安京と同じ時期に、同じ四神(辰神)相応として、今回の豪雨で被災いたしました、国宝の人吉青井阿蘇神社の建立に貢献いたしました。

ここでも、聖書の預言が実現しています。

しかも神社の創立日は、古のユダヤのラッパ祭の日でした。

福川宮司様は、日本(ヤマト)のメンバーでもあります。

辰は秦でもあるのですが、南韓半島は、今の韓国人の方々が住まわれる前は、球磨(求麻)川流域の民(熊女)の土地でありましたので、落ち延びてきた方々は、日本を目指す事となりました。

その海上交通の日本側の泊が、坂口の実家の弓月の畑から上陸した、産土神神社にありました、三韓の外交屋敷でした。

ですから、神社には、縄文の火焔土器の形でもある、火と水の手水舎が造られたのです。

これは、一般的な神社が、パブテスマのヨハネの水の洗礼(パブテスマ)に対して、イエスの火(霊)と水のパブテスマとなります。

驚くべき事は、イエスが、縄文人の教えを受け継ぎながら、その子孫が、縄文人の故郷でもある、日本に帰ってきたという事です。

日本に渡った後は、秦氏や服部氏などにより、日本の政治や、農工業は、発展する事となります。

日本(ヤマト)の服部熊本支部長とは、遠々たるご縁で繋がっていたのです。

そして、遠々たる革命は、今の日本(ヤマト)に繋がっているわけです。

写真は、太秦の真意が、諸民族を武力で統治(天下泰平)するのではなく、精神で統べる(天下太平、天下はアモイ、シヴァ神殿)である事を示す実家の掛け軸と、参道が表裏にある、三韓屋敷跡の神社の手水舎と、縄文火焔土器との比較です。



Comments


記事: Blog2_Post

Subscribe Form

Thanks for submitting!

©2020 by 日本(大和)。Wix.com で作成されました。

bottom of page