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神の光(米)の照射からI(個我、さざ波比礼の意志)が落とされ反射(曲玉)され、私たちが知る、光、と成った、在るから成(鳴)る事への移行のカラクリを知る時という事でもあります。

  • yamato-567
  • 2020年9月11日
  • 読了時間: 3分

熊野、伊勢の近畿や尾張名古屋、静岡の東海地方の方々と、こちらの熊襲、隼人、沖縄や名瀬などのHLAハプロタイプB54一DR4が共通しますのは、ポリネシア、インドネシアから遠くはマダガスカルまで及ぶ、オーストロネシア語族から共通しているのが元で、いつも申しております海の縄文人が重なる所が大きいと思われます。

その中でも古ポリネシア人、古インディアンと、熊襲は遺伝的に近いのですが、古ポリネシア人とは母音の韻も共通しています。

ところが、海の縄文人(オーストロネシア)イコール日本人ではないと考えております。 今も南の島々の方々の口伝では、自らが海人でありながら、海を渡ってくる人たちを神のように崇めておられます。 南の島々で消えたその人たちこそ、大津波で消えた那日ムス比日仁育宇舎の祭司である、日本人(ラマナ、斎王)であったと考えています。 その中には、大陸(アフリカ、中東の迦那安のウガリ、ウル、ウバイド、インド、中国東部)に渡って、すでに海に消えた宇舎の代わりの日本(宇土)に帰って来た人たちもいたのですが、そこには宇舎から直接流されて来た人たちが、すでに住んでいましたので、東国へ移り住まれたのです。 その方たちは、水酸化鉄や銅、水銀を河や沼湖で採取する河童(河姆、加茂)であったのですが、圧倒的な鉄の武具を持ちながら、古熊襲を滅ぼされなかったのは、大陸で混血されたとは申せ、共通の祖先であり、海を通しての数千年の交流が続いていたためと考えています。 呉を建国した太伯は、鹿児島神宮に祀られていますが、大陸からの難民の方々は、別のルートの八幡神(宇佐本宮)と融合して、伊勢や東国へ渡っていかれたと思われます。(韓国岳は八幡(秦氏)の制圧で名付けられましたが、元々、神日(カラ)という名が先にあり、韓半島に渡っていた日本人が韓半島の先住民) 九州から神戸、近畿へ移動した、高砂や、の歌の元の古今和歌集の歌にもありますように、それ以前も船で渡っています。 そして、日本国歌の元となりました、出雲王朝と九州王朝の融合の印、出雲の薩摩琵琶歌と古今和歌集の読み人知らず(木地師、コケシシの歌)の雉が、飛鳥と成って巣立つのがコケのムスまでなのかは、コケラオトシ(落成)の落磁葉(葉〆)の、この宇宙世界の誤魔化しが解けた時は、木地(コケ、雉)がムス(カビる、発生する、神成、ラィエデン)の時だからです。 神の光(米)の照射からI(個我、さざ波比礼の意志)が落とされ反射(曲玉)され、私たちが知る、光、と成った、在るから成(鳴)る事への移行のカラクリを知る時という事でもあります。 また、Iである個我は知のI、情のl、意のLで山となる山車(出し)ですが、山(Lの意乗り)から飛び立つヨシテ(芳手、熊手)、山→ヨとして木地は立ち上がり巣立ちます。 写真は、イースター島などの先住民の方々の、渡って来た神です。 髷(八咫烏)や海の鳥族(那日ムス日本人、奈良飛鳥)の暗示があります。 日本遺産の人吉球磨は、雉車(馬)の里と呼ばれています。 ちなみに、埴輪の形は、雉馬を引く(導く)、蘇りの誘いの使者です。 写真はお借りしています。










 
 
 

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