神(日)置き。
- yamato-567
- 2020年10月25日
- 読了時間: 2分
もう、七五三の季節ですね。
日本では、髪(神)置き、紐解きの七五三の歳時があるわけですが、幼子は、ちょうど、朝顔の弦が延びるのが早いので、結び直さねばなりませんように、紐(魂の緒線の事)解き結び直す最も危険な時に、産土神様に見守って貰うわけです。
幼子のうちは、何か凡庸としていて、年を追う事に、意識がはっきりとしてくるわけですが、それは、結び置く神(ここでは神は霊という表現)が、記憶そのものであるからです。
ここで、日本人は、記憶を霊を、なぜ神と申したのでしょう。 それは、神の光(米)が私に当たって現れている光が、見えない世界では霊で、見える世界では物質(令)という事だからです。 科学が進歩いたしますと、記憶が霊の性質だというだけでなく、物(令)も記憶を帯びた性質だという事が、解明されるかも知れません。 字で解明いたしますと、曲玉の性質の私に、神の光(米)が当たった時、神の光(米)は曲げられて、I(我)が落とされて光という字が示す通りになるわけです。 さらに、神の光が私に当たって変化したものが記憶(霊令)ですので、神の光は、神そのものではないのですが、神置きと表現してきたのです。 また、記憶があるという事は、神の光が私に当たっている証拠でもあり、私は、その記憶の証しにより、神と共に在ると気づくのです。 ところが、皆さん方は、我という記憶が無に帰してこそ、無限大なる神と共に在るのではとおっしゃいますが、確かに、いついかなる時空間を超えて、どなたも神と共に在られるのですが、それでは、調べ、気づきようがないわけです。 気づくのは、宇宙大の私であろうと、ちっぽけな私であろうと、私でありますから、個を無くした全てに、または無に在るではなく、個(一人子)の、私は在ると申しているのです。 写真は、坂口が七五三参りをしました産土神の、河内船津厳島神社です。 神社の磐座でもあります手水舎は、神の光を内に反射して霊、外に反射して令になる鏡の仕組みを、水円で表現しています。 舟型は、鏡の上に映る浮き舟である現れの私が、その鏡を内にも胎蔵しているという、不可思議な人の仕組みを表現しています。



Comments