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真我を光を反射する曲、神の米(マンナ)をくくる菊と表現した日本人の凄さ

仏教では、仏に、仏法に、帰依するという言葉があります。 南無でもありますが、帰依するという事は、それまで離れていたという表現になります。 ところで、法華経の長者窮子の話では、災いで幼期に離れ離れになってしまい、親子である事どころか、人も信じられない子が、扮装した長者に助けられながら役職を登り、最後に我が子と明かされ、長者の全てを相続いたします。 また、キリスト教では、家の財産を二分(宇宙の中の私の分)し、生前贈与を受けて家を出た息子が、さんざん放蕩の限りを尽くし、どうしようもなくなって、実家に帰る決断をして、父親に温かく迎えられる話です。 古神道では、落磁場(千葉)帰りになると考えますが、実は、離れ離れなどなかったのです。 長者(父)の光が、実在の私(真我、聖書では真名)に当たって(寄り添って)いなければ、人として現れてさえもいないのです。 ですから、いつも現れた私が真実だと勘違いしていますので、神よ、どうか罪深い私を許し、救ってくださいと祈ってしまうのです。 救うも救われるもない、映像(現れ)の初めであり終わりである、しめ縄の〆(神の実子)のあなたこそが、真実(真我、マナ)のあなたという事です。 その〆を示す〆シ家が、火(現れ)の元(日の本)の本(油)を教えますので、ユタ(祭祀者)の〆シヤ(ユダヤではメシヤ)には、松の油が注がれてきたのです。 それは、〆縄(注連縄)の示しという事でもあります。 今年は、手作りの〆飾りをいただきました。 ありがとうございました。 新たな年を迎えさせていただきます。



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赤子

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