狗奴(球磨)のクマラは、鞍馬の天狗
- yamato-567
- 2020年9月20日
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般若心経をどのように訳しますかという問があったのですが、多くの部分、これまで皆さんがお読みになられたであろう意訳と、あまり変わりはありません。
それで、これまで、どなたも挑戦なされなかった、残すべくして、わざわざ残された真言、奇妙な一文の所に、挑戦して参ります。
ところで、道を聞かれました時、熊本弁では、ぎゃん行って、ぎゃん行って、ぎやーん行ってはいよで、通じます。
そして、そこに、初手という、やはり、古代語がは入るのですが、それは、宮中や相撲では、ショテと発音され、芳言(芳山の言葉)や熊本弁では、ショティと発音されます。 昔という意味ですが、初めに戻るという暗示があります。 ここで、般若心経の一文で、わざわざ、後代のために訳されず残された、古代語の響きのままの所には入ります。 そこには、空を観じ詠むそれまでの文の、さらに真実があります。 それが、現象として変化する、とらえられる非実在を空と観て、変化しない、密なる、とらえられない何かの、初めの一手に戻る、二天一流、不二(富士)は日本晴れのギャ一ティです。 (ハラソ一ギャ一ティ) 波羅である海の波は空(非実在)である案内。 波羅として現れない海こそ実在。 (ボーディソワカ) 菩提である実在に、火の元の、若松の油が注がれる耶蘇(メシア、〆シ家)のように、蘇生し目覚める。 般若心経 彼岸にいけるもの幸あれ、ですね。 写真は、亀に意乗る亀茲(雉、キ)国の訳者の鳩摩羅什です。 乙女が神輿に乗るクマラと、稚児(乙姫、乙若)が雉馬に乗る球磨の雉馬の伝統は、同じデザインでわかりますように、同じ元で、彼岸の明かしの表現です。 雉馬は、クマのサガラの叔母の家のものです。 その他の写真は、お借りしています。




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