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熊本市民70万人の命の水の大元は、世界で水を守ってきた友と呼ぶ人たち。

  • yamato-567
  • 2020年9月12日
  • 読了時間: 3分

イラクのサマーワで、自衛隊が攻撃された時、自衛隊を守れのデモ、近隣の部族長たちが、自衛隊を攻撃したものは、一族を滅ぼすとまで宣言した事で、世界に衝撃を与えた事は、皆さんもお知りになるところです。 自衛隊の方々は、幹部でさえも、現地の方々と一緒に働き、そしてなによりも、民間人への犯罪一つ起こさなかった事に、現地の方々は、心を動かされたそうです。 私は、古代史を書く時、ちょくちょく、最近の出来事などを取り入れますので、ご批判を受ける事もありますが、それは、今の、生身の私たち自身こそ、凝縮された日本の歴史の賜物であり、日本の歴史そのものだという確信があるからです。 それで、普段は、私のように自己中心的に振る舞うものでも、思考を超えるような災害の時や、死をかけた戦地での姿勢は、日本人の真実の姿が出るのだと思います。 それをそのまま古代に当てはめますと、縄文人の遺骨には、争い殺された形跡が、極めて少ないという事です。 また、先程も投稿しましたように、強大な軍事力を持つヒッタイトが、なぜ、神殿を築き祈る、言葉も違う、私たちの祖先であろうものを守ったのか、という疑問の答えに繋がります。 ヒッタイトが、突然姿を消しましたのも、海の民に滅ぼされたのではなく、戦争を回避する手立てとして、人を傷つけない私たちの祖先を守るために、付き従っただけのように察します。 それと関連する事ですが、ペルシャ帝国のキュロス二世が、新バビロニア帝国で、補囚奴隷だった古代ユダヤ人を解放し、破壊されていた、エルサレムの神殿の再建を許した一面ではなかったかと思います。 そのキュロス二世の墓と伝えられるパサルガダエは、研究によりますと、震度7にも耐えうる造りだそうです。 バビロンの捕囚で、古代ユダヤ人が強制労働させられた、ニップル近郊の灌漑設備は、砂漠をオアシスと変えて、バビロンの都市を維持しました。 ニップルには、日本人がいたと考えています。 近隣には、空中庭園があったとも伝えられますが、今でも謎です。 写真は、かっては、農業事業のため、灌漑用水を敷かれた味生池の後地に建てられた、大きな池の庭園があリました、池辺寺跡です。 跡地の跡地ですみません。 奈良時代の初め、道君首名らにより、広くアジアの交流があったと考えられる寺です。 また、友の字が記された土器が出土しています。 なぜ友が大事かと申しますと、こちらでは、治水の公共設備を、トモと申すからです。 トモが、ダムと呼ばれるようになったルーツも研究されています。 また、今だに謎の遺構(地下施設)もあります。 更に、白村江での日本敗戦後に、この池と寺に関わる道君首名は、日本復活のために、玉名天水町小天に、天子宮を建て、外交に尽力しました。 その道君首名の遺徳を忍び、道君首名の住居跡に寺を建て、水前寺としました。 古代から灌漑工事をしてきた日本人と考えています、古代ユダヤ人のバビロンの補因は、残念ながら、強制労働でしたが、公共工事でしかできない大規模な灌漑施設は、友と供を大事にする、極めて、日本的な造物なのだと思います。 パサルガダエ、サマーワでのデモの写真、池辺寺の後半の写真はお借りしています。 追伸 日本は、世界一長く続いている国だけに、日本の歴史と合わせた、歴史外交ができます。 そのためには、子供たちの教育の現場での、古代史教育革命をしなければなりません。 どうぞ、ご協力お願いいたします。










 
 
 

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