韓半島の霊岩郡から来た百済(クルダイコク)の辰孫王が、西文氏(カワチノフミウジ)と同じ祖先(王仁、鰐)のルーツを持つと、当時の自らの百済の王統を差し置いて、わざわざ別のルーツの王統を申しましたのは、よほどの祖先でなければ申せません。 (河内の鰐洞は、私のプロフィール写真の場所です) (霊岩洞は岩戸山の事です) そして、辰(秦)の子孫を名乗る名こそ重要です。 ところで、弓月国(クルジャコク)での話題で出てきますヤマトゥは大和、テングリ山は天狗山、ナラは奈良という事ですが、ペルシャ(火の国、須佐の王)と共存したために、拝火教と秦の景教は混在いたします。 それが河内の拝ヶ石巨石群に景行天皇が出て来る由縁です。 (実家の畑は弓月(ゲンゲツ)です) また、国が滅びてからは、スキタイのサカ族(奴)と合流しながら鉄の文明を燕(北京)に伝えます。 (実家の生活水がタタラ水で、獅子が月夜(月→シン、辰、秦、シンヤ)に浮かび上がるわけです) (クルジャの奴が狗奴→球磨です) ただ、韓半島から九州へ渡るのは簡単ではありませんでしたが、すでにインドで交易を広めていたフェニキア人が、渡(綿)津海を勤めます。 韓半島には、インド出身の王姫がいたとも伝わります。 (鰐洞霊巌洞近くの梅洞の綿津見神社、洞は韓半島の熊襲の地名です) ところで、拝火教(斑鳩→火鳥)であったはずの聖徳太子が、なぜに仏教に帰依したのかは、サカ族(釈迦族と遠縁)の帯同という因縁もありますが、広がっていた仏教に紛れる事が、当時は、安全の面でも都合が良かったわけです。 そして百済は仏教王国でしたね。 ところで、阿蘇谷の伯父の家は、西家ですが、藤原に変えて再び西に戻っています。 西ではまずかったわけがあったと考えています。 一家代々の墓の数は世界でも稀で、それほど祖先を大事にする家が、右へ習えの藤原に、名を変える理由が見つかりません。 その西(カワチ)こそ、蘇我氏が滅びて行くときに巻き添えになった、当事の日本百済国立図書館の管理人です。 なぜ重要だったのかは、それまでの超古代からの日本の歴史が記されていたからです。 そして、日本の歴史は、世界の歴史だったのです。 阿蘇谷の爺さんは、その灰になった書物の中で重要とされた事成経が、名前が神棚に貼られる直前、突如現れた中国から来た占い師がつけた、私の名である事に驚きました。 球磨(狗奴)の阿蘇谷の釈迦堂の象の像を見ますと、本物を見た人が造ったんだと察しがつきます。

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