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火水(蕾の666)→火と水(木花と咲く369)→火水(実の666)

  • yamato-567
  • 2020年11月3日
  • 読了時間: 2分

狗奴の男王の卑弥弓呼の名には、火水弓(狗)子という暗示があります。

火水として、とらえられない何かが分けたものが弓月です。

火(霊、タカミムスビ)と水(令、カミムスビ)に分けた私(片仮名、カタカムナ)は、月(真名、留那)そのものではありません。

それで、欠けた弓月なわけです。

ところで、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメも、教えとしましては、霊と令の象徴です。

その話は、聖書の中では、レア(イワナガヒメ)とラケル(コノハナサクヤヒメ)の娘がいる、ラバンおじさんの所で働く、ヤコブの話でもあります。

ヤコブが天使と相撲を取りますように、日本の神道は、実は、聖書の中にも、逸話として隠されているのですね。

聖書の元の、迦那安のウガリ神話の元は、世界で最も長く続く日本の伽那のウガヤで、那は日本を示すのですが、それは、弓月であり、コノハナサクヤヒメである片仮名(カナ)でもあります。

写真は、いつも載せております、富士の浅間の木花咲耶姫の化身と呼ばれる、肥州高野山の、弓を持った聖観音(坂口の手も捻れながらも弓を握っているのですが、髪型だけ、どういうわけか、20年前の私のものです)ですが、富士は、分けていない不二(22)の気づきと、浅間は、熊本の阿蘇が訛ったと同時に、分けている状態を示しています。

面白い事に、片仮名と分けた火(霊)と水(令)の経験(人生、弓月)が、分けていない火水(真名)に気づくために必要なんですね。

それで、聖書でも、その挑戦の贈り物として、マナ(真名、種なしパン、野生米で霊○令□をマナ合わ瀬△▽○△▽□でついた鏡餅、全き月の事)が出てくるわけです。




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