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yamato-567

火と水の神崇日(カムタタラ)の霊の呼吸

イエスが獅子王と呼ばれますのは、ユダヤの王が獅子王と呼ばれていたからですが、獅子とは食べ尽くすものと申しましても、獅子を市章としているエルサレム市民でさえ何の事やらです。 ところで、おそれながら陛下は、大嘗祭、新嘗祭において、食人(シラスヒト)としてお立ちになられますが、食べるという意味は、神と向き合っているという意味で、食べ尽くすとは、向き合っている唯一の存在という事です。 ややこしい説明となりますが、あなたの私(実在)は、神と向き合っている唯一の存在で、映り見ている見られているあなたとあなた以外の人々や生物、自然などは、神と向き合っているのではなく、あなたの私の実在(私は在る)と向き合っているという事です。 天地万象(景趣→水前寺成趣園)は、あなたの実在から現れてあなたに戻り消えて逝く(帰依する)ものなのです。 申し変えますと、あなたの実在(私は在る)は、神の全てを相続するもの(白神→シラスヒト、一人子→大人)だという事です。 その全きものである自覚のための火のバブテスマ(禊ぎ)と、生かされているものである自覚のための水のバブテスマの縄文人の教えを復活させたのがイエスです。 イエスの子孫が上陸した三韓屋敷跡地の神社の磐座が、縄文火焔土器と同じ形でありますのは、偶然ではありません。 その霊の霊(神の実在、アルラ)である神と向き合う人(カルラ→迦日、伽羅)が食人の自覚にある時、その感動(幸福)で顎がはずれそうになります。 いつも載せています、坂ロが育ったタタラ水の双獅子は、カメうのフラッシュ(イースターの満月)で浮かび上がるものですが、実は、獅子(小宇宙、タカミムスビ、火の神)と獅子(大宇宙、カミムスビ、水の神)の間の顎のような口が大事なのです。 ですから獅子口と申します。 火と水の神、霊(日)の呼吸という事ですね。 肥後轟三水(タタラ水)は、福岡の竈門山から熊本の玉名和水の竈門神社へ続く古代日本の交通水路の終着駅となります。 古代、大和などから歌詠みの修行に来られた方々は、ここで荷を降ろし(執着から離れ)、落ちたら即死の岩戸山の小さな岩の上で、命がけの歌詠みに挑まれたのです。


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赤子

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