波(波羅)と海(密)
- yamato-567
- 2020年9月22日
- 読了時間: 2分
目覚めれば朝は来ていますし、宵闇は迫ります。
ところが、時間ではなく、空間でありますと、私たちは、東京が来るとは申しませんし、ニューヨークが迫るとは申しません。
それは、私という存在は、時空間に生きるものでありながら、その受動感性は、私の精神の活動によるものだという事です。
例えますならば、TVの中に映っている私も、実在の私の意志のチャンネルで、切り替えられているという事です。
逆に、映像(非実在、波)が、チャンネル(実在、海)を替える事はできません。
そのチャンネルの意志が、精神(鳥坂の反射、蒼井)という事で、TVの中の映像の私の意思(想いの波)が、執着という事です。
時間は、所有という執着が小さいので、座ら(諏訪日)しているあなたの所へ、やって来ますが、自身の身体や土地には、執着があられますので、行く事になるのです。
そして、精神の目覚め(日)の時のない時、九頭龍のはたらきとして、座らしますが、執着の活動の時、あちこちを探し回る八津の頭のようになりますので、八岐大蛇(八岐は九頭)で表現されますが、それもお知らせです。
ところが、空間でありましても、空や雲などには、執着があられないので、友が、雲龍がやって来たとおっしゃいますのも、真実だと察します。
時には、気がついたらここにいた、という事もあられるかと思いますが、それも、執着が小さいから起こる事で、今のあなたが、もの忘れがひどくなられたわけではありません。
私たちの祖先である、海の縄文人は、時化(四化)を、海のしけの波と読み、その仕組みを知っていましたが、正月などには、雲龍柳などを生けて、私が、生けるもの(蒼井、波ではなく海)である事を、伝えて参ったのです。
時には、ぼんやりと、空を眺めていたいですね。
写真は、故郷の海岸から、芳山を眺めた景色です。



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