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河姆渡の謎

  • yamato-567
  • 2020年8月11日
  • 読了時間: 2分

幾多の困難を乗り越え、昭和天皇のご成婚を成した清浦首相は、熊本の鹿本の来民の出身です。

鹿本だけでなく、加茂などの地名が多い菊池川流域は、茂賀の浦という、古代は、サロマ湖に匹敵する湿地帯が広がり、稲作が全国に広がるビッグバンの前の地、古代稲作の日本遺産でもあります。

それでは、その鹿本の前はどこかですが、熊本の天草だと考えています。

天草の本渡では、5000年~4000年前の縄文土器から、稲籾の圧痕が見つかっています。

そして、天草と同じように、菊鹿では、世界でも珍しい、インドの仏典にも載る、ジャックと豆の木のような巨大な樹齢千年の、アイラトビカズラが自生しています。

それは、稲作のルーツでもあります、長江へ繋がる木であり、超古代というべき河姆渡遺跡へと繋がります。(河姆渡→本渡→鹿本)(日本人は住む場所を移動しましても名の響きはあまり変えません)

中国ではありますが、現代の日本の米、日本人の遺伝子のルーツでもあると考えています。

覇権をうたう中国が、黄河文明よりも4000年~3000年も前の長江の稲作文化を、中国の歴史として、前面に出しませんのは、中国での歴史書の焚書と共に、超古代の中国は、日本人の国であったという、封印したい歴史があったからだと考えています。

ですから、日本は、豊葦原の瑞穂の国だと、堂々と申せるわけです。

話は飛びますが、モーセが、エジプトでマナを頼りに生きのびましたのも、今もエジプトの湿地帯に残る野生米を知っていた、日本人だったからだと考えています。

橋の下で拾われて来たと、皆さんの親子さんがおっしゃった事は冗談ですが、実は昔の那人(日本人)の風習で、川に赤子を流す習慣は、後に雛人形を流す習慣となり、今の雛祭りと経過しているわけです。

そして、モーセは、那入川で流されていた所で、エジプトの王族に拾われています。

余談ですが、坂口の実家に雛人形がなく、雛飾りの掛け軸しかありませんのは、川に流され、燃やされていたからです。(娘たちのものはあります)

菊池のブランド、菊池のまんまは、日本人が、古代から、神から授かる食べ物をまんまと申していた名残であり、モーセの時代には、マナと訛ったのだと考えています。

写真は、本渡の大矢遺跡の、稲籾の圧痕跡の顕微鏡画像と、稲作で力を得た岩原双子塚古墳(全長107m、高さ9.3m)です。



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