top of page

旧約聖書(瀬降津の洗礼)と新約聖書(イエスの洗霊)の和合(ヤウマト)が、なぜ縄文(霊と水の織り目)の復活なのか

  • yamato-567
  • 2020年8月2日
  • 読了時間: 3分

なぜ、縄文時代の神は、古墳時代の神に祀り竿(実権)を渡しながら、融合(大和)となったのでしょう。

景教(新約聖書)の御子オウスは、狗奴(菊池川流域→球磨川流域の菊理、狗々智)の熊襲(旧約聖書、河童、天狗)の名を襲命し、日本武尊と成ります。

それは、景行天皇が、球磨川を下った八代海や不知火海をお渡りになられて、ここは日本だとおっしゃった、日本の名の由来とも繋がります。

元々熊襲は、後世の、聖徳太子の師の日羅のように、韓半島と九州の両方に住み、韓半島の先住民でもあり、縄文時代に大陸に渡っていた人たちの総称でもあったのです。

そこに、ローマから脱出した、イエスの子孫が建国した太秦の人たちが、中国統一目前で大敗し、逃れて来たわけです。

その場所が、なぜ、二つの熊女なのかは、縄文時代に、ユダヤの国の崩壊から逃れて来た人たちは、その多くが男性であったため、熊襲の女性と結婚したからです。

それと、古墳時代に、太秦の敗戦と共に逃れて来た人たちも、男性が多かったため、同じ事が繰り返されたのです。

そこは、三韓の一つの辰韓(秦→辰)という事です。

後世の、韓国の方々が、熊女を祖とおっしゃるのは、戦争棄民となっていたところを、熊襲に助けられたからで、熊女伝説は、単なる盗用だという事です。

ちょうど、韓国人ではない高句麗を、高麗と名だけ真似ているだけなのに、いつの間にか、韓国時代劇で、あたかも民族の祖先の話のように盛られているようにです。

話は戻りますが、自ずと、熊襲での母系社会となりながら、戦争が環境を変えて参ります。

球磨での日本武尊の襲名、大和桜井三輪でのヤウマト(神民)の統合(日本成立)以前に、半島ですでに、旧約の12支族×新約の太秦での12民族(12単、宮中の十二単のお着物は五唐衣の事)の、144は成っていたのです。

その象徴が、韓半島から日本へいらした応神天皇でもあるのですが、いずれにかお話しいたします。

ただ、聖書の預言が成るには、大和桜井三輪の000が必要で、144000人のヤウマト(神民)は、単なる人数ではなくて、暗号という事です。

それで、今春、FBグループ日本(ヤマト)も、現世は他人ではあったのですが、144名の縁者から初めました。

日本(ヤマト)そのものが、旧約の縁者と新約の縁者の大和です。

また、旧約の時代の、瀬降津(水には入る合羽)の水による洗礼(禊ぎ)は、イエスにより、霊(火、日、太陽、菊)の洗霊(禊ぎ)と復活なされました。

なぜ復活なのかは、地下深く埋まったエルサレム第一神殿が、太陽の紋(菊)と禊ぎ池の菊池の構造であるのですが、それは、縄文火焔土器のように、火と水の洗礼が、6000年の聖書の歴史以前に、日本の縄文人の祭祀(真名合わ瀬の〆シヤ、〆名和)であったからです。

坂口の祖父も父も宮総代を勤めました、河内船津厳島神社には、その火と水のパブテスマの巨石が、手水舎としてあります。

縄文火焔土器の本来の火水鏡の姿です。

同時に、迦那地斎島(アブラハムが真に求めた迦那安)神社の表鳥居門と裏鳥居門は、火(新約)と水(旧約)、私の中の宇宙(タカミ△巣▽とカミ△巣▽を示しています。

また、裏鳥居門が表鳥居門として逆転しておりますのは、司祭が祭司に、末法(末本)が本末に戻った(私は在るの認識が復活)したという事です。

さらには、三韓外交の要としての三韓屋敷があった場所というオマケ付きです。

自家宣伝ばかりですが、9月の熊本観光の一部コースとしております。

大海を渡って、日本の西海岸にたどり着きになられた、皆さま方のご祖先のルーツを見にこられませんか。



Comments


記事: Blog2_Post

Subscribe Form

Thanks for submitting!

©2020 by 日本(大和)。Wix.com で作成されました。

bottom of page