日本語では全ての動詞がウ声で〆られますが、その能力の出所が、折り張るの金鋼という事です。
- yamato-567
- 2020年9月12日
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FBの友からいただいた、一昨日の台風の雨雲の野分けの所が、高天原だという事が気になられておいでのようですが、地球も台風も、円に近い形(台風は偏西風などで流されています)ではありますが、それは、タァカァアァマァハァラァと、ア声で、空ァ山ァと軽く延びて、丸く張りつめているわけです。(マ声は丸、ラ声は螺旋回転)
逆に、イ声は、海ィ大地ィと重く沈んで降(折)りています。 日本語では全ての動詞がウ声で〆られますが、その能力の出所が、折り張るの金鋼という事です。 その金剛とは、曲玉である高曲原の実体を便宜上で喩えたものです。 ところで、映画の上映では、光を当てる映写機は、もちろん実物ですが、光(米(神の光)を勾玉で曲げた菊)を反射(曲玉)するスクリーンも実物です。 ところが、平面(ダイラ、大日)であるスクリーンが実物であるのに対して、スクリーンと表裏一体の、造物で非実物の映像(浮世、浮橋、浮舟)は、立体的に感受しています。 星を読み、大航海をして水平線を知っている昔の人が、世界を平面に描いていましたのは、そういう事ですが、写真にありますように、高天原が分けられていますのは、高天原のタ声(対称性)に、高曲原として、人の曲玉(反射、天の逆鉾)が関わっているという事です。(割礼、佐々礼石、たわけ) その神の光(米)と、勾玉により米からI(我)が落磁葉され曲げられた、光の陽が重なっている菊の世界(1月11日のカがミ降ろし)に、私たちは、す舞い(住、主人)しているという事です。 愛でたい事ですね。
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