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日本の龍骨(中央構造帯)の東西の端に住む親子は、火の君(中臣氏の祖)が茨城に渡った時以来。鹿島の長男が帰省している間に、またしても震度5

  • yamato-567
  • 2020年11月22日
  • 読了時間: 1分

東端海の鹿島神宮と、西端海の近津鹿島神社を結ぶ中央構造帯は、地震の巣でもあります。

それを鎮めるために、近代的地震観測などなかった昔に、日本の東西に、鹿島神社は建てられました。

不思議な事に、世界的な近代的地震観測は、明治にこの近津鹿島神社のすぐ上で起こりました、金峰山地震が初めです。

井寺の嘉島、球磨の鹿目や、山鹿、鹿本と、鹿の地名は多いのですが、鹿は、倭人の祖であり、倭王の名にもあります。

近津鹿島宮は、その鹿島の祖神が海に現れ、それを重く受け止めた、藤原南家の当主、保則によって建白されました。

保則は、備中(岡山)での未曾有の飢餓の危機を、税の免除や、農地の開墾で乗り切ります。

さらには、文官でありながら、彼が武職として登用されましたのは、敵見方両陣営からの信頼と、求心力からでした。

見事に乱を収めています。

藤原氏の中にも、権力に溺れない至誠の方はおられたのです。

写真は、本日、茨城県の鹿島から里帰りした息子と参りました、拝ヶ石の不動明王と、岩戸山の不動尊です。




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