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忘れられた神代(古代日本)

  • yamato-567
  • 2020年10月31日
  • 読了時間: 2分

私の産土神の河内船津厳島神社は、三韓と深く関わった所で三韓屋敷があった所です。

古代日本の歴史の空白を埋める手助けは、ちょうど年代的にもこの三韓ですが、すでにありません。

ところで、全国の神社に奉納された神代文字の原点とも言うべき肥文(一二三、くまふみ、阿比留草文字)を追跡した本居宣長が、球磨川流域に住む人たちにたどり着いたにも関わらず、日本国にあった言語ではないという結論に達した不可解は、球磨(求麻)人が、そもそも、今の日本国土ではなく、半島及び、大陸に住んでいた人たちだからです。

写真は、子供の頃は毎年乗船していました、神社の祭りでの、海上パレードです。

古代は、船津厳島神社(弁天さん)そのものが船着き場で、船団を組んで渡っていました。

坂口の実家の畑のクブレとゲンゲツ(弓月)は写真の裏手ですが、なぜ隣なのに名が異なるのかは、渡って来た人たちの元の地名に影響(馬韓→狗→クブレ、辰韓→弓月)されていると考えています。

三韓の名が暗示するところでは、馬韓→馬門→大王、辰韓→太秦→八幡、弁韓→弁天→木花咲耶と浮かびます。

ちなみに、稗田阿礼(天日枝の舎人)が南韓半島の言語に通じていましたのは、実際に住んでいた人たちの子孫だからと思います。

また、太安万侶の神代文字がヘタクソだとおっしゃるのは、祖先が南韓半島に住んだのが一時的な、シルクロードを渡ってきた、太安を元号とした太秦の人たちの子孫だからと考えています。



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