平等寺と山田大王神社
- 2020年11月4日
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京都伏見の醍醐寺は、古事記にも、その参考書の古今和歌集にも深くお関わりになられた、醍醐天皇の菩提寺です。
その醍醐寺の永厳法印(平等房、FBの友の前世)は、求麻(今の球磨)の阿蘇谷に平等寺を建立いたします。
平等寺は、400m×600mの敷地に、本堂と七つの伽藍、250基の五輪塔(△▽○△▽□の六芒で真名合わせの壺形)、板碑などがある、荘大なお寺でした。
ところで、平時子の父であり、高倉天皇の外祖父の平時信の祖をたどりますと、平範国となり、平等房と兄弟となります。
話は飛びますが、平時子が安徳天皇(言仁、ときひと)と共に入水なさる時、遺された弥生の末の弥生とは、倭人の事ではないかと考えています。
その安徳天皇に関わる草薙の剣が、四国の剣山にあるという噂を聞きつけ、戦後、GHQは、血眼になり探したそうですが、見つかりませんでした。
ところが、そのGHQの大幹部招聘を固辞された、ロックフェラ一財団の御曹司のエンブリー博士は、戦前戦後にかけて、柳田国男の紹介で、球磨の阿蘇谷の平等寺を研究調査されたのです。
若くして交通事故でお亡くなりになられましたが、戦後、国際社会での、日本人の名誉回復に捧げられた人生でありました。
結局、阿蘇谷にも草薙の剣はありませんでしたが、そこには、草薙剣だけでなく、三種の神器の真意が口伝されていたのです。
エンブリ一博士と関わった阿蘇谷の西義継が、もうすぐ百歳という死の直前、家族のものも聞き取れない程衰えてはいましたが、なぜか私には、はっきりと聞き取れ、その時はまだ小学生だった坂口に、お伽話を託したのです。
平城京では実現できていなかった、聖書の預言の千年王国が、平安京(エルサレム)で実現いたしましたのも、古今の教えが受け継がれてきたためです。
そして、球磨では、相良氏の統治が始まるまでは、平河氏が守ってきました。
写真の、山江村の山田大王神社は、その平河氏を祀った神社です。
そして、日本人には馴染みのある山の姓こそ、邪馬土(倭)であり、ヘブライ語では神民(ヤウマト)です。
ちなみに、先ほど投稿いたしました邪馬台国も、父は、ヤマダ国と申しておりました。
そして、人吉球磨の都に、平安京と同時期に、同じ四神相応として、人吉青井阿蘇神社が建立されたのです。
山田大王神社の写真はお借りしています。

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