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岩戸山が火山湖だった時、棲んでいた龍が遺したもの

  • yamato-567
  • 2020年6月30日
  • 読了時間: 3分

江戸時代に、日本一の国学の大家の本居宣長が、多くの弟子を使って調査した結果、古代日本には、神代文字はなかったと結論づけています。

国学者ですので、ほんとうは、日本は、神代から文字を持つ凄い国だとおっしゃりたかったと察しますが、また、新しい発見ですと、注目を集め、財務も潤うのでしょうが、きっぱりと、古代のものでなく、中世のものだとしています。

その正直さには、感動いたします。

それでは、その正直な振る舞いの底辺にある文化は、どこからきているのでしょう。

私は、人を思いやる気持ちがあれば、文字などの伝える手段は、自ずと派生すると思います。

子孫を思いやる時、口伝もできますが、他に伝達する手段があったのではと思います。

本居宣長は、神代文字は、大陸半島にいた、今は肥後の球磨川流域に住む人の肥文(くまふみ、ひふみ)と結論づけていますが、九州に残っていた球磨人は、神代文字がなかった古代、どのようにして伝達していたのでしょう。

漢字を発明した蒼頡が縄文字を使っていましたが、世界的には、縄文字が広がっていたのだと思います。

祖父も、藁のものと差別するためか、大昔がそうだったのか、まだ判明いたしませんが、マオランで編んでいました。

大嘗祭の百子張で、南国のクバが使われますように、南の島々にいた時の名残かも知れません。

もったいない事に、小屋の建て替えの時に捨てられました。

ところで、縄で思いつきますのは、縄文土器です。

ただのデザインもあったと思いますが、神へのメッセージ、家族へのメッセージがあったと思います。

そして、宇土の櫛目紋土器は、干潟に現れる櫛棚田に似ていますし、そこに生息する櫛目を刻む貝の模様にも似ています。

それは、この世界が、神の波の雛型だという科学です。

その波の波紋に感謝し、土器に映して、伝達していたのかも知れません。

また、世界一美しいと称えられる球磨の免田式土器(マナセの壺形)は、生活のためには使えず、斎器としてのものでした。

まさに伝達手段だけのものだと考えています。

私たちの祖先が、伝達手段なるものを持たなかったわけでなく、繊細で高度なために、今の私たちの幼稚な注意力では、いつも目にする注連縄が、伝達手段である事さえもわからないのです。

岩戸山では、龍が二つのものを残しました。

奄美以南に生息する蜘貝は、縄文螺旋回転、蝶貝は櫛目の波でした。

これは、鱗(タカアマハラのハ声)があり螺旋(タカアマハラのラ声)している龍体の姿、宇宙の構造の科学です。

そして、私にとりましては、祖父の形見でもあります。

写真は、蜘貝の縄文螺旋回転の縄目の体を、わざと細く強調された、月を三爪でつかむ龍(ぐぬち、龍命)です。

波紋の蝶貝の形の、龍の鱗を強調した龍は、残念ながら、戦時中の混乱でなくなったそうです。



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