安曇野比羅夫が、命をかけて守ろうとしたものは、すでに侵略により国を失っていた百済でした。
元の元は、有明海に面した茂賀の浦にいた安曇野氏が、なぜ志賀の島にいたのかは、狗奴の卑弥弓呼の一族を、半島に渡すためでした。
そのルートが、熊本から長崎を迂回する事なく、福岡に直接出る、鬼滅の刃で知られる筑紫の竃門山の水門を通る道だったのです。
トンカラリン近くの竃門神社も、そのルートです。
近所の寺は日羅開基ですが、日羅のように、古代、半島と日本の両地を故郷に持つ人は多かったと思います。
百済来村もありますが、熊本の名のクの発声そのものが、百済と関わってきた土地という事です。
写真は、百済の聖王の意志が伝わる、球磨のあさぎり町須恵の阿蘇谷の釈迦三尊です。
九州の奥深くにありながら、広大な伽藍があった所です。
世界各地でアーク(三種の神器)を探していたロックフェラー財団が、最も調査に力を入れた所です。
阿蘇谷の爺さんは、転輪聖王とは、おむすび(鬼切り)ころりんコロコロリンだと申しておりました。
その鬼切りの最初のころりん(転輪)は、神の実在(映写機)の光の照射(米、マンナ)で、次のコロは、私の実在(スクリーン)の光の反射(曲玉)で、最後のコロリンは、私の現れ(映像)の言葉の感応謝(応神)という事です。
鬼切りが三角でありますのも、その三津の破魔矢(射)の仕組みの示しです。
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