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大海(小天)人は何処へ

  • yamato-567
  • 2020年8月23日
  • 読了時間: 2分

元寇の時、生き残った元軍の将が、世界の覇権を握った元の軍が、それまで出会った事のなかった強い敵であったと申したそうですが、それより四、五百年前までは、日本軍は、世界最強の海軍であったのだと思います。

それなのに、なぜに、白村江の戦いで敗れたのかですが、渡るのも大変な海を、指揮官は、大海人の子孫の、安曇野比羅夫とは申せ、すでに、海で生まれ育ったものは少なく、陸兵で海戦に臨んだからです。

近年まで、福岡の志賀島以前の、安曇野比羅夫の祖先の地でもある、世界最大の漁民人口を抱えた有明海の民が、出兵に責極的に協力できなかったのは、軒を借して母屋を乗っ取る百済と、戦争準備のための税負担に耐えられなかったからです。

それでも、敗戦後、九州は酷い侵略にあい、日本存亡の危機となりましたが、その時、立ち上がりましたのが、道君首名です。

道君首名は北陸の一族でしたが、元々は、半島の新羅の元の、金官首露王の一族と思われ、菅原道真公以前の、古代の天神を祀っていた方でもあります。

さらには、筑紫の守として、灌漑設備や、鹿鳴館のような外交屋敷を建てた道君首名は、水前寺の名ともなるのです。

その政治手腕により、侵略を跳ね返し、唐と新羅を分断する外交にも成功し、日本復活と成ります。

ところで、幕末には、元寇で戦った菊池の教えを伝えた横井小楠は、北陸福井藩の松平春嶽の参謀として迎えられます。

これも祖先の縁です。

小楠は、明治政府にも迎えられますが、暗殺により逝きます。

されど、五箇条の御誓文、大日本帝国憲法、教育勅語、皇室典範は、横井小楠のもと、熊本の四時軒で学んだ方々で草案されました。

写真は、筑紫の守所が置かれた小天天子宮の火渡り神事と、小楠公園と、四時軒です。

四時軒は、熊本地震による復興途上です。

小楠公園では、たまに昼寝をしていますが、その合間に、新しい憲法の草案をしています。

小天天子宮は、宮前に親戚もあり、幼少期には遊んでいました。



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