古今伝授とは、宇宙開闢以来の日本の歴史の口伝
- yamato-567
- 2021年1月11日
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細川幽斎が古今伝授者だったとは申せ、御所(天皇家)伝授であります、日本の国体そのものであります古今伝授の間が、熊本に移築される事に、反対はあったと思います。 しかしながら、水前寺成趣園(出水神社)に移築された背景には、古代の日本の歴史の復興の意味もあったのだと思われます。 五箇条御誓文、大日本帝国憲法、教育勅語、皇室典範等、明治の国体の基本に、古代の王政復古が盛り込まれ、草案の中心となりましたのが、井上毅や元田永孚などの熊本藩士でした。 ところで、古代の日本の歴史を、なぜ復興せねばならなかったのかは、弱肉強食の、厳しい国際情勢にありました。 その厳しい国際情勢に先がけて対処いたしましたのが、水前寺の名の、筑紫の守の道君首名だったのです。 当時、白村江の世界大戦に敗れた日本(筑紫)は、略奪殺人の侵略にあい、疫病も蔓延していました。 その危機に、天水町小天の神有所(かみうそ)に小天天子宮を建て、芳山の中腹に、池庭をようする巨大な迎賓館を建てたのです。 広大な建物であった事は判明しておりますが、今もなお、地下道などの謎は未解明のままです。 ただ、巨大な覇権国家となっていた唐、そして、日本が弱った所に侵略してくる半島の新羅と対抗するには、ルソン(フィリピン)やシャム(タイ)、遠くはインド(天竺)までの、海洋外交を展開したのです。 芳山に植えられたダイダイは、インド原産木でした。 なぜ、早急に国際外交ができたのかは、筑紫ネットワークという事です。 釈迦や迦那安のイエスの迦もそうですが、竺(筑紫)の迦那人は、世界に広がっていました。 それゆえに、古代の歴史、祖先の言葉を口伝する古今のものが重宝されたのです。 それ以前の、人吉球磨で名を襲名したヤマトタケル(ヤマトは筑紫の名)は、古今(宇宙開闢以来の日本の歴史)を伝授されていたのだと考えています。 写真は、水前寺成趣園と、芳山中腹の池辺寺跡地です。 空海が日本三大霊場とした肥州高野山は目の前です。 友の字が記されておりますが、8000年前の治水のトモが西に伝わり、ダモ→ダム→6000年前のアダムの語源になったと考えています。 皆さま方には、竹内文書として知られる内宿禰も、芳山の対岸の筑紫の人ですが、坂口の祖先に船を造らせています。 水前寺成趣園の形は日本の形で、日本の形は世界の形で、世界の形は人の形という、まさに竹内文書そのものでありますが、北海道ゥは北米大陸ゥ、本州ゥはユーラシア大陸ゥ、四国ゥは豪州ゥ、九州ゥはアフリカ大陸ゥ、台湾島ゥは南米大陸ゥに照応しておりますが、竹内文書では、最も大事な所が抜けています。 それは、迦那人が13000年前の大津波以前に住んでいた、沈んで裏島となった祖先の島々の那日ムスゥが、隠されてきた南極大陸ゥと照応しているという事です。

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