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加茂川西郷のウテナ(ウチ那)の龍蛇族

  • yamato-567
  • 2020年9月2日
  • 読了時間: 2分

菊池一族では、西郷隆盛の祖先の西郷政隆のみならず、幾方も、西郷の姓を名乗られたのはなぜでしょう。

その秘密の鍵は、菊池の加茂川の西郷にあると思われます。

ところで、西郷の城があった菊池七城町の、ウテナ台地の瀬戸口には、250基を超える横穴墓がみつかっています。

そして、大陸で横穴墓が多い地域は、イランやイラクにもありますが、中国の長江流域です。

菊池の周辺には、長江原産のジャポニカ米の籾跡や、長江特有種の相良トビカズラなどの原木があります。

横穴墓は、中国では日本人の墓といわれていて、人吉球磨の墓でも紹介いたしましたが、熊襲の墓です。

そして、西郷の祖先の地にあります若宮神社は、仁徳天皇を祀ります。

仁徳天皇陵にみられる、特徴的な前方後円墳(高句麗などにみられるくくりの祭祀の形、高木の神、阿耶高)は、相撲の上円下方墳でもあり、国旗日の丸でもあり、真名瀬の壺でもあります。

この地域が、玉名から繋がる瀬戸口である事も暗示ですが、前方後円墳が多い地域でもある事から、長江から直接、または、高句麗から渡って来た王族が住んでいた地だと考えられます。

ところで、菊池が菊池を名乗る遥か昔、菊池彦(菊理、くくり)は、人吉球磨に渡りましたが、西郷も、人吉で起死回生を計りました。

球磨のあさぎり町の才園古墳では、中国では、最高の礼を尽くし贈られる金鍍鏡が出土しています。

長江流域と関係が深かったようです。

余談ですが、古代、金印が元々あった場所と思われるイト国や、出土した志賀島などの北部九州は、熊襲の支配地域にありました。

先日のNHKの特集でも、漢が、北方系の遊牧民などの地域に与えるラクダの印を、朝貢に来た南方系の服を見て、慌てて、南方系のヘビの印に造り変えた痕跡があるとの事でした。

日本で、中国南方系の服を着ていた人たちは、熊襲しか考えられません。

北方系と勘違いされていたのは、普段交流している北部九州、中国地方の方々の服をみておいでだったからでしょう。

そして、やがて、横穴墓、前方後円墳が造られなくなると同じに、熊襲は、朝敵であったとして、書物は書き換えられていくのです。

出土品ではなく、書き換えられた書物を元に、歴史考証されますので、古代日本の歴史は、失なわれた世紀になってしまいました。



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