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初めにはすでに終わっている、日本人の心意気。それは、映像の初めであり終わりであるスクリーン(白神、皇)であるという事

  • yamato-567
  • 2020年11月6日
  • 読了時間: 1分

イザナギ、イザナミ、倭も実は委(イ)ですが、伊勢や出雲など、古代日本の中心地はイです。

いの一番の、イ呂波から始まる現れの宇宙開闢も、イィギィという、噛みしめの〆(占め、締め)がなければなりません。

日本人は、正月の発会式などでも、一本締め(三本締め)をいたしますが、それは、字にも現れていますが、初め(始め)にはすでに、締め(終わり)がある事を知るものであったのです。

聖書の、初めであり終わりであるものです。

ところで、松と申しますと、和風と感じになられると思いますが、古代ユダヤの祭祀では、松を使いました。

そして、表に見える火を可能にする、火の始(アイラ)めであり終わり(後セキィ、戸締め)である、松の油を注がれるものを、メシア(〆シ家)と呼んだのです。

松の油に気づいたものが、松竹梅(政事、軍事、祭事)を治めてこそ、ヤハタ(ヤウヴェ)の神の願いに叶うという事です。

ところで、聖書の歴史では、鳩は、洪水の終わりを告げ、時には生け贄となる、メシアの姿を示していますが、洪水の始めを告げるのも鳩(鳩摩羅、イザヤやイエスなどの預言者)です。

写真は、戦の神を祀る、人吉球磨(相良藩)の井口八幡宮です。

境内の橋の、片仮名(カナ)の真名合わせ(マナセ)の、石工の技術は、おそるべしですね。

また、松と鷹ではなく、鳩でありますのは、古のヤハタの教えが、受け継がれてきた証しです。



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