内出の小槌
- yamato-567
- 2020年8月11日
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古今の歌には、言霊としての響きに、私たち自身の仕組みの秘密が詠み込められています。
歌人の一人、山部赤人の母(赤丹塗りの申人)が修行していた、岩戸山の子宝観音で、12月18日の納めの観音に、同じように母に宿ったご縁として、山部赤人の歌をお伽木いたします。
田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富土の高嶺に 雪は降りつつ
山部赤人
芳山の岩戸山で、歌詠みの修行をしたのは本人ではなく、山部赤人の母ですが、この歌は、古代の、富士王朝と竺(竹)紫王朝を繋ぐだけでなく、古今、新古今のすべての歌の中で、縄文の教えを直で伝えた歌です。
田子はタカアマハラのタ声が先(幸)分けて、現れて行く様子ですが、その裏(浦)に、一寸法師の、打出の小槌も同じ暗示ですが、内に出て見ればと申しますのは、普通は外に出るという表現が常識ですけれど、田子と分けていない不二の、白妙であるスクリーン(白いスクリーン)の、内(元)の波(映像)のない何かを知れば、富士の山(息、△▽、八咫烏の影)と現れるこの世界の行き来(生長)がよくわかるという歌です。
また、内とは、門と人(一人子)の事であり、岩戸山の麓のダイラ(ダイダラボッチ、一人ぼっち)の人形岩(鳥居に居諏訪らす、御座居ます、外に出るのではなく、内出、打ち出の小槌)の事です。
高嶺は、頂きで、日抱きという暗示で、全てを一くくり(日の丸)として抱きしめているのが、私の実在ですので、すべての現れ、私も含めまして、私から来て私に帰っているのですが、その私は、動かず、座ら(諏訪日)している何か(来るものでも去るものでもない不二)という事です。
雪は、山(山車)をひっくり返したヨシテのヨですが、行き(ゆき)として辺降る(ヘブル)有様を解いた表現です。
紀貫之などの代表する歌人や、古事記編纂の太安万侶などに、身分が低いにもかかわらず、歌聖と呼ばれた由縁です。
富士(不二)は晴れましたでしょうか。

やはり内での小槌ですよね