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六芒角と五十辺角

  • yamato-567
  • 2020年8月10日
  • 読了時間: 2分

6000年といわれる聖書の歴史が始まる少し前、千年に渡る火山灰の降灰に絶えてきた祖先は、この地で死ぬのか、もしくは、脱出にかけるのかを迫られていました。

それで、子孫に命を繋げる策として、道を半分に分けたのです。

今は海からは遠い、岩戸山の6000年前の船着き場は、邪馬土(ヤウマト)の希望を繋ぐ、別れの場でもありました。

ところが、時を経たイザヤの時代には、東海の島山(馬から降りなければならない、海からすぐに山となる神聖な邪馬土の地形の特徴)に、逆に希望を持つ事となり、大陸から芳三山に芳来する人にとって、芳三山は、希望山と呼ばれます。

ところで、火の君(火山雲に隠れた太陽を呼び出す祭祀の赤人の一族)が、岡山などで死んだ人を蘇らせた(継体の)話と、イエスが、死人を蘇らせた話が似ているのですが、生業であります、石切り(イスキリ)人である事まで似ています。

ところで、宇宙の中の私(令宇宙)と、私の中の宇宙(霊宇宙)が交差する、点とも表現できない寿(言吹き、す)を、十字で表現し、そこが磯辺(日本語の五十音霊)の敷島の原点であり、五七の調子の十二宮と現れる元という事です。

その元の雛型としての五十石(猿田彦石)と、太陽の赤石(大和や吉備の大王の墓石)としてのこちらの宇土の馬門石が使われましたのも、蘇り(継体)の祭祀です。

ですから、祭祀として使われた石舞台(超古代は亀石)は、天草姫戸の巨石のように、五角形であったのです。

拝ヶ石巨石群の亀石も、六芒(△▽○△▽□)角と五十辺角とあり、8mの鏡石の頂点にも十字の石切り(イスキリ)があります。

そして、歌聖として古事記編纂の太安万侶に影響を与えた山部赤人の、その母が歌詠みの修行をした、岩戸比日きの岩戸山で、毎月28日の不動さんの月命日に、まだ夜が明けぬ早朝、祖母に手をひかれて参りました時には、太陽をいただく日抱き(赤人)の象徴として、お赤飯をいただいておりました。

その継体(継乙女)の名を持つ祖母ですが、あくまでも戸籍上、夫(祖父)を二度も生き返らせています。

28日は、令霊の二つの宇宙∞の交差の点なき点(不二、不動)を明かします。

それを、富士は晴れたりとも、不動明王とも申すのでしょう。

写真は、いつも載せています拝ヶ石の亀石、敵を愛するという蘇りの基本で祈った菊池の、愛林堂横から始まる猿すべり(蘇りの参道、ピラミッド形の666mに近い芳山登山)入口でもある鳥井と、オリオンの三ツ星の配置と同じ芳三山の案内板、古の出水神社水前寺成趣園参道入口の、坂口の花坂出水店前でもあります、熊野宮の猿田彦石です。



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