令和の詩経と古今伝授
- yamato-567
- 2020年10月20日
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もしも、古代の日本人が中国に残って、古今和歌集を編纂していましたなら、令和の元の詩経の、再編集版となっていた事でしょう。
ところが、古今和歌集と成りましたのは、詩経の大元の、海の縄文人の口伝が日本にはあったからです。
なぜ日本かと申しますと、古代の中国人は、日本人だったからです。
それで、詩経の六義の、風・賊・比・興・雅・頌(皆さんは短縮して風雅との認識だと思います)→仮名序では、そへ歌・かぞへ歌・なずらへ歌・たとへ歌・ただごと歌・いはひ歌を尊重しながら、あくまでも分類や解釈という学問から、言の葉を使役する、言葉遣いと成ったのです。
それで、言葉遣いとは、音霊、数霊(数字の暗号、霊界の標準語のようなもの)で鬼神を動かしますので、日本語を使う私たちは、言葉遣いには気をつけねばならぬという事です。
空ァ山ァと軽くなり、やがて球と張り詰めて、海ィ大地ィと重く沈み、やがて住舞いと噛みしめる、そのアイの錬磨をウ声(日本語だけは、飛ぶゥ走るゥ遊ぶゥなど、すべての動詞がウ声で〆られます)が抱きしめるアオウエイギィの真釣留木(呼吸では、アオウエインの阿吽)ですが、本場所を占めるの占の〆は、自らの首を締めるの〆でもあります。
それで、押し売りをしているわけではありませんが、坂口は、皆さんのご先祖様の願いのもと、皆さんの使いとして、示す役目(〆シ家)だと申しているのです。
写真は、いつも載せています、坂口の故郷の岩戸山の、歌詠みの修行の場と、その直下の鼓ヶ滝です。
歌詠み場の小さな岩の下は、落ちたら即死の断崖絶壁です。
なぜにそのような命がけの修行をしたのかと申しますと、私たち子孫に、自らの首を締めるような、誤った言葉遣いを伝えるわけには参らぬからです。
それは、昔の言葉遣いは、古今の歌詠みで、よくよく吟味されているという事です。
また、新しい言葉遣いが悪いと申しているのではなく、吟味されていない分、危険でもあるという事です。
感受の強い方ですと、歌詠み場から眼下の鼓ヶ滝では、昔のような令人としての修行者はおられませんが、今も、霊人の修行者であれば見る事ができます。

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