始皇帝もイザヤも、東の死の海の果ての島を示しますが、実は、ウルの王も、ファラオも、その不老長寿の島(芳来島)を目指していました。
しかしながら、誤解がありましたのは、津丹仮面のように、死してからの挑戦だと勘違いがありました。
ところで、浦島太郎は、玉手箱(アーク)を空けて、白髪となりますが、それは、実在が、煙りのように捉えられないものである事を知った、額田(眉間)の目がひらいた、白毫(白神の気づき)という事です。
それはまた、北極星のように、回る(表現される)天(アン)無き何かです。
アヌンナキ(十六菊花紋)は、宇宙人などではなくて、この表現できない何かを、天体と神々によって表現しようとした試みです。
目で捉えられるものが非実在(末)で、目では捉えられない何かこそが実在(本)という、本末転倒(末法)の終末に挑戦する示しとして、日本人は、目に頼らない鯨面の入れ墨をしていたのですね。
また、捉えられる仮面(文字では片仮名)は、日本の古い祭りでは割られます。
そして、捉えられない真名こそが真実という事です。
アークは空きましたでしょうか。
この気づきを天の岩戸開きと申し、眉間をアク間(666の不動、北極星6オール)と申します。
いつも載せています鯨面の朱鶏は、エデンの園を守るケルビムであり、それは、日本では御輿で、ユダヤではアーク(玉手箱)の事です。
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