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モーセの石板と八咫の鏡。

  • yamato-567
  • 2020年10月24日
  • 読了時間: 1分

モーセの石板が、なぜ八咫の鏡なのかは、この世界を大まかに分けますと、私の中の宇宙(ヤタノカガカミ、タカミムスビ、千由烏千由)と、宇宙の中の私(カタカムナカミ、カミムスビ、烏千由烏)に分けられ、それを説明したのが、モーセの石板だからです。

八咫をもう少し詳しく申しますと、二元宇宙×来常、不動、田貫の化かし合いで6、それが顕界幽界神界の影(八咫烏の三本足)と伸びますので、666と成ります。

火台(額)666の鏡面の印を持つ額田王は、悪魔の親分とされていますが、イエスが、私は雲に乗って来ると申しましたように、雨とひっくり返されるわけです。 なぜそのような面倒な事を聖書の黙示録に記したのかは、イエスの子孫を迫害したローマによって編纂される時、666(それぞれの鏡面を持つ観音の命日は18日)の教えを持つ年を経た蛇(縄文人)が悪者であるほうがローマにとって都合が良く、その結果、聖書の最後に遺る事ができたわけです。 つい先ほど、この投稿の途中で、幣立神宮のお水を頂き祀っている神棚にお供えすると、お榊をお買い求め頂きました。 幣立神宮のものも、モーセの石板と同じ、八咫の鏡(アソ火の神、火台666)の示しだと考えております。





 
 
 

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