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ム寿ビ(△巣▽)の息の引き取り先

  • yamato-567
  • 2020年9月22日
  • 読了時間: 2分

忘れたいけれど忘れられない過去は、息苦しいものです。

されど、その息苦しさの経験により、息継ぎ(△▽イクムスビ)が、霊の記憶と令(物の霊)の記憶に関与している事に、お気づきになられるのかも知れません。

呼吸は、単に、生命の維持活動のためだけではないという事です。

それでは、死に際して、息を引き取ると私たちが申しております息は、どこに引き取られるのでしょう。 ところで、阿弥陀仏の誓願は、私たちを一人残らず救い取る事だと申します。 その救い取るが、息を引き取るという事だと考えています。 虚空から勢至の宇宙開闢の帰依(南無)は、網蛇での息の引き取りだという事です。 ここで、救うは菊とも繋がる掬うで、米は光としてIを落とされ曲げられる前(神の光)で、勹は勾玉(曲玉)の事です。 曲玉は、私の実在の、便宜上の機能の表現ですが、私は一人で生まれてきて一人で帰るという仕組みの説明となります。 その大いなる孤独の、曲玉により振り分けられた、賑やか(震える辰命)な間が人間であり、また、爾宜を握っているという事でもあります。 この時、霊や令(物の霊)が、なぜ震えているのかは、米(神の光)の脇差しが当(満、充)たっているからです。 相撲(角力)の一手でもある脇差しは、釈迦が、摩耶の脇から生まれた三津の力(月は曲玉の暗示、映写機→スクリーン→映像)という意味でもあります。 天上天下唯我独尊の一人子でありますが、脇差しは、抱きかかえられている状態でありますので、誇りは持っていましても、バブバブちゃんが、威張り散らしていましたら滑稽だという事です。 また、大いなる孤独は、孤独どころではなく、大いなる愛に包まれているという事かも知れません。

 
 
 

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