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ミマナ(御真名→任那)

  • yamato-567
  • 2020年10月15日
  • 読了時間: 2分

水俣で、コンピューター不正入札の疑惑が、百条委員会にかけられた時から遡る事五年、水俣の市民税が異常に高くなった事を受け、調査する事になりました。

その黒幕が、警察のOBでもないのに(坂口は短い間ですが警察出身)、警察OВ会会長を勤めていて、捜査しているこちらが捜査されるという、おかしな事態となっていました。

同じ熊本県ではありますが、熊本市内からは水俣は遠く、捜査は、仕事としてしているわけではありませんので、生業を終えてから、生業の朝ゼリが始まる8時間の半分を、通う時間に取られながらも、事の全容を、なんとかあぶり出しました。

そのエネルギーは、若かったという事もありましたが、遠い昔、韓半島で姿を消した日本の、半島人と任那府(日本人)の因縁を感じていたからです。

ところで、唐土(韓土)の日羅の、弟子となった聖徳太子ですが、その日羅の父の阿利斯登の代まで、古代から南韓半島を統治していたのは、水俣(葦北、八代)の民だったのです。

阿利斯登の斯は白木で、後の新羅の名でもあります。

それ以前も、棄民であった今の半島人の命が助かり、日韓併合時の人口爆発も比べものにならない程、人口が爆発的に増えましたのは、水俣に今も残るモヤイ精神(分け合い助け合う暮らし)でした。

今の半島人の祖先にとりまして、先住民が日本人であった事が、大幸運であったのです。

ですから、竹島どころの話ではありません。

また、任那(みまな)と水俣(みなまた)は読みの発声も似ていましたが、水(東支那海)で分けている水俣だというだけで、同じ豊葦原(葦亀蛇→葦北)の日本の土地だったのです。

ところで、阿利斯登の墓は、他の大和政権のどの墓(大和の大王の墓石は熊本の馬門石)よりも、副葬品として、先進的な馬具と挂甲であったそうです。

気は優しくて力持ちであったのですね。

その遺徳からか、日羅も、大伴氏などにより、遠い熊本の故郷の地へ埋葬されました。

それから千年が過ぎましても、菊池などの熊本の一族の半島との貿易が、半島に近い対馬氏の許可を得ずして、特別優遇(今でいうホワイト国扱い)でありましたのも、日羅以前の、日本に対する敬意があったのだと察します。

写真は、百済来(坂本村)のお堂と、半島で古代史調査をしていた大伯父が持ち帰った、半島の稲作風景の水彩画です。

半島の人口増加の要因の稲作は、日本から伝わったと申しておりました。

余談ですが、花坂の隣の店のカラ王の店主さんは、水俣出身の方というご縁です。



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