稲作の源流は野生米ではありますが、稲作も畑作も、元々の自然を壊す挑戦です。 また、バアル(バル)の七つの階段を登りますのも、神と同じ実在の気づきへの挑戦だとも申せます。 神の使いがいるだけで、人さえいなかったら、今よりも美しい地球だったのだろうと、想像できると思います。 しかしながら、神の思い通りにならない、その唯一の存在であるあなた様がおいででなければ、この世界に驚きがあったでしょうか。 ロボットばかりでは、自作自演の想定内で終わります。 そして、あなた様がいるために、その勇気で、仏(天使)も、曼陀羅で描かれるように、佛→沸々と湧き立っているのです。 私は幼少の頃、仏説阿弥陀経をお寺の日曜学校で学んで、正直なところ、東西南北、上下のどれだけ沢山の仏がいれば気が済むのかと、子供にとりましては、経文が長ければ正座の足が痛くなりますので、もっと短くしてくれよという心境でした。 ところが、仏生会での事、マヤの脇(湧き)から生まれてくる釈迦の話を聞きますと、三津(照射の力→月の反射の力→湧き立つ力)の脇の仕組みに気づいたのです。 野見崎の墓(相撲は墓前で取るもの)の高祖父が申し伝えておりました、曾祖父を初太郎と名付けた由縁の相撲の初手は、神の私への脇差しなのだと腑に落ちました。 そして、現れた(四延びの→四能の)私がいるという事は、照射する神と対面する、反射(刃向かう、忍、神と相撲を取る)の私が居るという証です。 それはまた、映画の上映では、映像があるという事が映写機の存在を証明いたしますように、神の実在を証しているという事です。 写真は、瓜二つの、迦那人のバル(日本人が原や春などの姓が多いルーツ)像と、釈迦生誕像です。 天上天下(アンゴルアモイ)で七歩も同じです。 皆さま方にとりまして、バアルもバベルの塔(出雲大社の形)も悪魔崇拝で、アンゴルアモイに至っては、恐怖の大王だというご認識だとは思いますが、残念ながら、それが、神の光(米→曲玉で菊られてIが落とし曲げられ米→光)の日射しを一身に独り占めなさる、あなた様という事です。
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