アマビエと地震
- yamato-567
- 2020年12月19日
- 読了時間: 2分
東端海の鹿島神宮と、西端海の近津鹿島神社を結ぶ中央構造帯は、地震の巣でもあります。 それを鎮めるために、近代的地震観測などなかった昔に、日本の東西に、鹿島神社は建てられました。 不思議な事に、ポツダムでの世界的な近代的地震観測は、明治に、この近津鹿島神社のすぐ上で起こりました、金峰山熊本地震が初めです。 震源地に住んでいた祖父の祖父は、そのポツダムのお知らせは、日本人の意識に禊ぎが遠のいた時、いずれ知られる事となると申していたそうです。 曾祖父は、先の大戦が起きないように上京していました。 ところで、井寺の嘉島、球磨の鹿目や、山鹿、鹿本と、鹿の地名は多いのですが、鹿は、倭人の祖であり、倭王の名にもあります。 近津鹿島宮は、その鹿島の祖神がアマビエの海に現れ、それを重く受け止めた、藤原南家の当主、保則によって建白されました。 保則は、備中(岡山)での未曾有の飢餓や疫病の危機を、税の免除や、農地の開墾で乗り切ります。 さらには、文官でありながら、彼が武職として登用されましたのは、敵見方両陣営からの信頼と、求心力からでした。 殺し合う事なく、見事に乱を収めています。 藤原氏の中にも、権力に溺れない至誠の方はおられたのです。 それで、徳川家康は南家藤原を名乗り、江戸から遠い熊本の海でのアマビエの出現が、江戸で騒がれる事となったと思われます。 写真は、本日、茨城県の鹿島から里帰りした息子と参りました、近津鹿嶋神社(古代の烏土の宮)です。 普段は、親子で、日本の東西の端にいて、中央構造帯を挟んでいます。 保則の写真はお借りしています。

Kommentarer