弥勒菩薩の因果 56億7000年(狐と狸の化かしあい?)
- yamato-567
- 2020年5月19日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年6月7日
タカミムスビの、私の中の宇宙(千由う千由)でも、カミムスビの、宇宙の中の私(う千由う)でも、表現には動き出しが必要です。・・・千由は天之御中主の事。
その時、動きを表現いたしますと風となり、風の子(神の子)がー(肥)と成ります。
その鳴り言なので、神代文字(肥文)は、ーから始まります。
ここで、始まる前を、異なる表現でいたしますと、タァカァマァガァハァラァ(高曲原)の、神詰まります、密なるァ(ー)です。 このァが、言延び(宇宙開闢)して誕生いたしましたのが、皆さま方が認識なされている宇宙です。 その宇宙を、神伝ではタァカァアァマァハァラァ(高天原)と発声いたしますが、先ほどの高曲原には発声はありませんので、あくまでも理解のための、便宜上の試みです。 ところで、その宇宙が存在すると申せますのは、カミムスビの、見るもの(奇霊)と見られるもの(荒霊)のイクムスビと、タカミムスビの、話す(口)ものと、聞く(耳)ものの聖とあるのですが、イクムスビには、スサノヲの暴れる外宇宙(顕界)と、岩戸に隠るアマテラスの内宇宙(神界)と、その糸を繋ぐツクヨミの表面宇宙(幽界)の三界が、仕組み的にあります。 それは、タカミムスビとカミムスビの、二元(双羽)宇宙(魂魄)にあって、顕幽神の霊令界は、相互に存在するものですので、2×3=6視点面という事になります。 ところで、この宇宙が生まれた動機は、私が何であるかの知の探求なのですが、探求は、裏を返せば欲求であり、求めるがゆえに、行き来が生じます。 その来る時の変化を来常(きつぬ、弧)と申し、行く時の変化を(田貫、さぬき、狸)と申します。 不動と申しますのは、その孤と狸の化かし合いに、付き合っていない視点面の状態という事です。 それを別の表現でいたしますと、行き来の無明が、火と水の洗礼により、終了した状態という事です。 不動明王の火は、その火(霊)の洗礼を助ける使いという事です。 ですから、水(令、カミムスビ)の不動明王の使いもあるという事です。 来常、田貫、不動の3視点面を、先ほどの2×3=6にかけまして、18視点面となります。 このオハコ(18)が、玉手箱(ァ一狗)の謎解きの鍵となります。 そして、2×3=6のそれぞれが、不動の視点であります時に、666と表現されるわけです。 同時に、七月の祇園祭や、洪水明けの七草などのひっくり返しを暗示する七の月(七夕)と合わせて、不動となる本末転倒の終末は、1999→666の七の月という事です。 さらには、下照る姫、木花咲耶姫を、時計の文字盤で表現いたしますと、666の蕾から567→468→369と下に咲き開く生命の木の花は散りますが、666の実(私は在る、観自在)の気づきは残るのです。 この時、その兆候が567ですので、弥勒菩薩の下生(下照)は、56億7000年という数字が暗示されたわけです。 日本(ヤマト)のナンバーが、567となりますのは、私たちが挑戦者(菩薩)だからです。

Comments