お彼岸のお墓参りの原点
- yamato-567
- 2020年9月20日
- 読了時間: 2分
鏡は、霊を反射いたします。
反射とは、1(神の実在)月11(私の実在、私の現れ)日の鏡降ろしで示されます、神の光(米)から、か我みと、I(我)を落として曲げる、米→光の、曲玉の作用という事です。
それは、足(行く先)を分けて八咫となります。
内なる反射の行く橋(芒)△▽イクムスビは、和霊○タルムスビを知り、△▽○(天)と成ります。 外なる反射の行く橋(芒)△▽イクムスビは、幸霊□タマツメムスビを知り、△▽□(地)と成ります。 ここで、生け花の基本のように、天地を人として真釣り合わすのが人ですが、天とは、物理的な天空ではなく、私の中の宇宙という事です。 また、地とは、宇宙の中の私という事になります。 天地真釣り合わせの示しが六芒であり、🔯と表現されますのは、△▽○△▽□だからです。 日の丸も相撲の土俵も、このくくりの示しであります。 熊襲の墓でみられる鏡と、鏡の示し、そして円は、霊を反射させ蘇らせる、復活の祭祀でもありますが、それは、今を生きるものにとりましては、内外の宇宙世界を現しているのは、私の実在(鏡)であるという、気づきの復活でもあります。 その気づきこそ、真の狗句理(鞠智)であり、キリストです。 ところで、阿弥陀仏が、四方八方十方(八咫)を救いとられるのは、漁師が魚を網で掬い取りますように、私の死が、外に反射された世界△▽□を、ちょうど、テレビのスイッチを切りますと、映像がすべて消え失せますように、映像は、あなたの私の実在から来て、あなたの私の実在に、すべて、帰依していくのです。 波が消えて、凪ぎ(蒼那木)の真釣留木(真剣)となりましても、海が在リますように、あなたの私は在ります。 本日は、三種(蒼)の神器の意味をお加木いたしました。 写真は、シャカや、それ以前のアブラハムが生まれる前の祀り事として、網籠が使われていたと考えています、宇土の曾畑(そは襲であり蘇生です)遺跡の、ペッタンコではありますが、網籠です。 もちろん、祭祀以外の主なる使い方は、貝を洗ったり、橘を入れたり、現代と変わらなかったと思いますが、この籠が、後世には、蚕を育てるための作業籠である、しょうけ籠になっていったと考えています。 それ以外にも、世界的に知られる曾畑式土器や、石笛なども出土しています。 一つの写真は、球磨のあさぎり町の才園古墳の金鍍鏡です。 古代には、鏡は最も大事なものであり、金鍍鏡は、広大な国を支配するものしか、持てないものでした。 もう一つの写真は、芳山麓の、熊襲の墓といわれます、千金甲古墳です。 墓を一周する花立て(立花)が立てられ、古代のお彼岸の墓参りは、豪勢だったのかも知れません。 籠目の紋などの写真は、お借りしています。














コメント