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うちゅうの中主(ちゅら)

  • yamato-567
  • 2020年9月24日
  • 読了時間: 1分

花は、咲き散る事で、美しいと驚嘆いたします。

景色でありましても、一瞬一瞬に生死があります。

そして、私の一息一息にも、生死があります。

生ばかりで、死がないなら、どうして、美しいと申せるのでしょう。 人の本(日の本)は、命という不自由を超えた、何かなのです。 古代人は、人を喩えて、美らと申しました。 その人が、どうして、永遠の命というものを、心配せねばならぬのでしょう。 それは、永遠の命という架空の取引を、商売にするものがいるためです。 皆さんは、そのものに支配されてこられたのです。 写真は、美ら海の東南東にあるという、ニライカナイ(儀来河内)の伝説です。 河内の祖父は、我が家に来る燕は、元々は、そこに住まう燕だったと申しておりました。 毎年必ず、初子の卵の殼を、一つだけ、お礼に落としていましたが、航空機で、農薬を撒くようになりましてから、残念ながら、来なくなりました。 丸木船を削るための石斧も、鬼岩の目に付ける龍目(古いモアイ像の黒目の材料)も、ニライカナイ(生まれては死ぬ蘇り、遷宮遷都される常世の根の国)の時代から、使われていたと考えています。 ニライカナイのイメージ、与那国の美ら海の島、モアイ像の写真は、お借りしています。






 
 
 

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