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菊の節句

  • yamato-567
  • 2020年9月10日
  • 読了時間: 3分

本日は菊の節句で、普段は薔薇をお取りになるお客様にも、菊の花をお薦めいたしました。

世界では、花の原種が多い事で有名な日本ではありますが、菊は中国原産で、平安末の後鳥羽上皇以来、日本人の心に深く根ざして参りました。

ところで、氷河期には、九州と大陸は地続きで、多くの縄文人が、今の大陸へと渡りました。

そして、その土地に残った縄文人が、長江で堰を設け、野生種からの稲作を始めたのです。 熊本では堰の事をトモと申しますが、長江には、トモに関して、熊本と同じ地名があります。 そして、その米を集める(くくる)様子が菊です。 やがて菊は、縄文人の認識と重なります。 それは、神の光(米)が私の実在(勾玉、応神)に感応射して現れている世界(光)がこの世という事です。 米からI(我)が落とされ曲げられた、光の字が示す通りです。 後代には勾玉の機能は鏡(加我美)にたとえられ、銅鏡(球磨は金鍍鏡)を照らして、現実の仕組みの実演講義が行われたのです。 ところで、聖書6000年以前の、友と共にトモを造る長江での稲作は、トモがドモ→ダモ→ダムに訛り、成す人であるアダムや、Doの語源と成ります。 ですから、エルサレム第一神殿の太陽の紋と禊ぎ池は、菊池だと申すのです。 後世とは申せ、中国では日本人の太伯が建てたとも伝承される、古代中国の王朝の勾呉は、中国統一目前で、都の姑蘇が陥落し、そこから逃れて都を築きましたのが、阿蘇の麓の菊池です。 一方、戦いには勝利しながら、中国東北に残った臣下は、後世に高句麗を建国し、その臣下が百済を建国いたしましたので、元々九州に逃れた王族と同族ではありましたが、異なる系統に分けたという事です。 ところで、勢力を弱めた菊池彦(菊理)は、球磨に逃れます。 その球磨の阿蘇谷を長期間調べましたのが、ロックフェラー財団の御曹司のエンブリ一博士だったのです。 なぜ直々の研究だったのかは、失われたユダヤのアークの謎が、ここに眠っていたからです。 坂口は、阿蘇谷での伝承を口伝されたものとして、伯父の太忠(たちを)にも説教しております。 この研究を参考に出版された菊と刀は、欧米人が日本人を知るうえでのバイブルとまでいわれましたが、残念ながら誤解が多かったと思います。 話は戻りますが、日本の神道の装束とユダヤの祭司の装束が、勾呉の神道の装束と極似しているという事は、日本とユダヤの神道が似ているという事です。 重陽の節句に建てられた狗奴の人吉球磨の国宝人吉青井阿蘇神社は、水がたたえられた勾呉の姑蘇の都に、まるで禊ぎ池のエルサレムの第一神殿が建つたたずまいです。 今は、豪雨災害で大変な時ではありますが、必ず、世界の都として復活いたします。 写真は、戦後、敵国人となった日本人の復権に尽力されたエンブリ一博士ご夫妻です。


 
 
 

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