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芳(吉)

  • yamato-567
  • 2020年9月1日
  • 読了時間: 2分

倭人とはいったい何ものでしょう。

ところで、毎日のように拝ヶ石巨石群の妙見な話を投稿していますが、その住所は芳野です。

九州の西の端ですが、妙見神が上陸した八代も含めまして、芳は吉となり、東日本、北日本まで広がりました。

その中でも、神道の吉田神道は、人吉青井阿蘇神社へと逆に伝わり、相撲の神事の吉田司家も、熊本へ戻ってきた形です。

それでは、なぜに吉なのでしょう。

簡単に申しますと、葦(芳)草の根元に、鉄バクテリアによる、ぬめっとした、水酸化鉄があるからです。

水辺で暮らし、土器を造り、煮炊きを人類に先がけてしていた私たちの祖先により、燃やされ窯で高温になった葦(芳)草から、鉄は発見されたのだと思います。

やがて鉄は、広大な土地の開墾と農業を可能といたします。

同時に、武力も持つ事になり、葦原の中津国を平定する事になります。

平定とは、それまで略奪が横行していた土地を、豊かな農地に変える灌漑なども含みます。

ところで、中臣鎌足の名も葦草を刈る鉄器からきているのではないかと考えていますのは、中臣氏の祖先の火の君の一族が、芳山芳野の麓から出ている事を、藤原氏自身が突き止めているからです。

ところで、皆さんは、漢人と申しますと、今の中国人の方々とおっしゃるでしょうが、今の中国が建国されましたのは最近の話で、しかも歴代の王朝は、満州や蒙古人などが握っていて、元々の漢人(あやひと)は、倭人といわれる事となる、私たちの祖先の、芳(吉)の火焚き人(ヒッタイト)ではないかと考えています。

奇しくも、芳野拝ヶ石巨石群の麓の斎藤山では、日本最古級の鉄器が出土していますが、この玉名小天から玉名荒尾にかけては、祖父母の実家も含め、中国独立の孫文を支援した、中心的な人たちの故郷でもありました。

中国が、古の中国の姿に戻る夢があったのだと察しています。

芳野スワラが元の本籍地でありました私自身、父は、家族のため、全国展開の建設会社を退職してからは、鋏の焼き入れをしていましたし、長男は、中臣氏の本拠地の鹿嶋で製鉄に携わっていますので、因縁を感じます。

しかも、鋏は、米国や中国への輸出品が多く、人の感覚が左右するものでもありますが、日本の物作りの伝承による技術の高さが伺えます。

写真は、斎藤山の鉄器と、八代の妙見祭と、奈良の吉野と同じように桜に埋もれる、八代の豊葦原神社(桜が自生する所は肥えた土地という倭人の知恵)です。



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