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松竹梅

  • yamato-567
  • 2020年10月10日
  • 読了時間: 1分

同じ有明海(筑紫)の迦那人でありながら、なぜに武雄の武内宿禰のご子孫は、口伝を文書になされたのでしょう。

ところで、迦那人は、政事、軍事、祭事を松竹梅として、役割を分担していました。

そのうち、軍事(竹)だけはマツリゴトと呼ばれない(釣り竿がない→口伝がない)、政祭のような口伝が受け継がれていなかったのです。

そのうち、祖先の島々が滅びた、13000年前の大津波前の日食の出来事により、日食の度に遷都するという事が続き、安住(安曇)の地はなくなり、戦争や災害の度に、松竹梅がバラバラになって参りきました。

それで、幾派も分ける中で、竹の分派は、口伝そのものが伝わらなくなったと思われます。

なぜなら、口伝の最も大事な事は、終わりの時でなければ、肥文(神代)文字などの表記により、拡散し伝える事ができないという口伝だからです。

写真は、12000年前とも言われます、遷都した後がうかがえます、トルコのギョペグリ・テペ遺跡と、熊本の火の君の墓の、塚原古墳との比較です。




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