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一人子

  • yamato-567
  • 2021年3月14日
  • 読了時間: 2分

日本人である伊祁(堯)を神聖視する儒教は、中国では焚書坑儒などの大迫害を受けるのですが、儒教が神を語らなかったのは、シャカが神を語らなかったように、理解では簡単に伝えられるものではなかったからです。

神道が教えとしましては、キリスト教やイスラム教のように、神を教えようとしてこなかったのは、その神は、言葉としてではなく、親から子へと伝えられる、暮らしの歳時の中で、気づき伝えられるものだからでした。

日本でもなぜに、伊耶那岐と伊耶那美が、天の坂矛で神生み、島生みの振る舞いをするのかという疑問にお立ちになられる方は、すでに、西洋的な、非実在な思考を本とする本末転倒の、神を思考で合理的にとらえようとする習慣になれておいでなのです。

神はとらえられないのです。

私はあくまで、とらえたとする教えの方の理解のために、とらえたかのような三津(密)の説明をしております。

とらえる、とらえないの境界は、私の認識にあるのか、ないのかという事です。

認識は、私が生まれていないとありません。

私がいる事で、霊としましても、とらえられるのです。

その、現れの私がいる前の何か、古事記では、私の実在であり、神鏡である、天之御中主からを記してありますが、それは、実在の神、実在の私は、とらえられないという表明でもあります。

私がいて、とらえられる世界となります島生みは、スサノオとして、神鏡に外反射して暴れてゆく光の現宇宙の世界で、また、神生みは、アマテラスとして神鏡に内反射して鏡に籠っていく光の霊の世界です。

月読みが大事とされますのは、外反射として生長するもの、内反射として籠るものの両性質にまどわされる事なく、鏡面の反射そのものの光を読みとれるからです。

それも三つ目である、八咫の鏡の気づきになければなりません。

それは、シャカが申しますように、執着がない(明鏡止水)という事ですし、イエスが申しますように、一人子だという事です。

一人子と申しますのは、全財産を相続していれば、これは私のものだと執着する気もおきないという意味です。

それで、日本人は、血縁の財産を相続してきた氏神さま、霊縁の財産を相続してきた産土神、地縁の財産を相続してきた鎮守神と、玉の緒の一系を、教えより大事にして参りました。

堯や坂矛の写真はお借りしています。



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