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黙示録の四邪馬と邪馬土の四神相応

火や水や刃は、暮らしに役に立ちますが、使い方を誤り(逆立ちいたし)ますと、命を脅かすものとなります。

同じように、四神相応が四神相克となりますのは、私たち(逆那、那人)の思い(念)の成す技(鯰)ですので、四神も、私たちが動かしているとも申せます。

ところで、黙示録に出てくる四邪馬は、実は四神の事で、聖書の黙示録(ヨハネが見た幻)が、東洋的な視点で書かれている事がわかります。

日本の古事記でもそうですが、残酷な表現が多いのは、私たちが注意を向けるためです。

なぜ、注意を向けるものであるのかは、今現在、本末転倒の逆立ちの認識をしているからです。

黙示録での二十四の長老も、曼陀羅での十二の当院も、本末の認識の目覚めにおける象徴ではありますが、私たちにとりましては、叩き起こされているのですから、決して心地よいものではありません。

また、イエスが、雲に乗って来ますのも、水蒸気(見えない世界、天)を雨(見える世界、地)とひっくり返す、天の岩戸開きという事です。

そこで、これまで注意もしてこなかった見えない世界は、実は、このような状態なのですと、見える世界の淡路(イクムスビ)と固まる前にそれを知り、真剣に取りくまなければならないという事です。

妙な申し方ですが、預言は、そうならないための預言です。

また、そうなってよいのなら、預言も必要ありません。

そして、あなたが、事が起こる初めであり終わりでありますのは、本末からの視点で申しますと、出来事を超えている、出来事を可能にしている存在だという事です。

写真は、四神相応で建立された、国宝人吉青井阿蘇神社の楼門の龍ですが、恐ろしい血と見える方は、逆立ちをしておられるという事です。

しかしながら、龍だとわかり、注意を払っておられるだけましなのかも知れません。

そこを発起として、もしあなたが、目をお覚ましになられましたのなら、あなたが神の血統(ぐぬち、くんち、龍命)であると、気づいて観ておられるでしょう。

四邪馬が四邪馬(馬から降りなければならない)でありますのも、あなたが、誰も足を踏み入れる事のできない存在(邪馬土)だという証でもあります。

また、意志は、皆さんの尊厳そのものですので、誰も替わる事はできません。

よくある、救世主が救ってくれるような話そのものが、本末転倒のお手本のような視点です。

人生は、逆立ちを止める、その挑戦の門をくぐる、唯一無二の機会かも知れませんね。

四邪馬と四神の写真は、お借りしています。


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