映画での映像が、スクリーンから浮かび(浮世、浮舟)現れて、スクリーンに消えて逝きますように、現れの人は、鏡(月)から来て、鏡(月)へ帰ります。(反射、釈加具土、土→十一→土、土の反射の坂矛)
聖書での、人は土から来たのだから土へ帰るは、科学的な物質結合分解の示しと共に、人が現れる仕組みの示しでもあります。
その月の光が、あまりにも眩しいので、私たちは、霊界の太陽と申しますが、実は、自らの反射光です。
自らの光を見るという、おかしな事になっているわけです。
それで、現れの人が、どこから来てどこへ帰ると申しましても、ピンとこられないのです。
光は捕らえる事ができますが、スクリーン(鏡、内裏)そのものは、映像と表裏一体なので、私が私を捕らえる事はできません。
それでは、鏡(月)に反射される前の光、曲玉として曲げてI(我)が落とされていない光、それが米(神の光)ですが、その日と鏡の月を、光として曲げられる前の米として、句(革)くり理解(智)したのが、鞠智(菊池)という事です。
ところで、鏡餅が二段でありますのは、日である神の実在、月である私の実在を示しています。
また、鏡降ろしが1月11日でありますのは、神の実在のーと、私の実在のー、私の現れのーを示しています。
香久耶(加具耶)姫の写真は、お借りしています。
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